義務教育について私が語ること

春先、久しぶりに先生に会った。
先生といっても私の指導教官ではない。
出身大学の教授だから「先生」と呼んでいるが、学部が違うのだ。
私は音楽学部の卒業生、彼は美術学部の教授である。
彼とは、5年前に大学の近くの公園を歩いている時に知り合った。
それ以来、お互いに国内にいる時に連絡を取り合って食事に行く仲になった。
国外にいてなかなか会えない時は、先生が私のためにとっておきのレストランを用意してくれる。
私はそこに、適当なボーイフレンドにエスコートされながら赴く。
彼はいつも世界中を飛び回っている。
たまに、私の航路と彼の航路が交差するのだ。
その日は、ゴールデンウィークに開催されているブリューゲルのバベルの塔の展示にも関わっていて多忙ながらも国内で時間が取れるという連絡が来たのだった。

「CGでね、絵の中の人を動かそうと思って。ふふふ」
どこかの科学者のようなひょうきんな笑顔でそう言って、彼は前菜を平らげた。「あの絵のすごいところは、拡大しても人が生き生きと書かれているところです」
私達は葉山のマリーナの近くのフレンチレストランにいた。
初めてここで食事を共にしてから、もう5年が経っている。
その間に彼は胃を半分摘出したし、私は胆嚢を取った。
案内される席だけが変わらない。
暖炉の裏の窪んだ場所に置かれたテーブルが、先生の定位置だった。
海の見えるフォトジェニックな席は若い恋人たちや女性たちがこぞって予約を入れる席のようで、今日も相変わらず予約の札が置かれていた。
しかしその一角とは対角線上に位置するこの席が、レストランのなかで一番良い席だということに、私は先生と食事をするうちに学んだ。
奥まっていて目につかない席は、人の目を気にせずに過ごせる。
そして給仕の動線から外れた場所は、ケルナーが能動的に気を配る席だ。
ケルナーは私達が皿の料理を空ける絶妙なタイミングで姿を現し、流れるように次の皿の準備を整えてゆく。

「最近はどうですか、音の調子は」
一通り近況報告を終えた私に、先生はそう尋ねた。
「まあまあです。先生に『良い線は情報量の多い線』と言われてから、なんとかそれを音に応用したいと思っているのですけれど」
なかなかに手強いです、と俯いた私を見つめて、先生は面白そうに笑っている。
「僕が線をかけるようになったのは60を過ぎてからですよ。20代で気がつけたあなたは幸運です」
うーん、と唸る私の前に暖かい魚料理が運ばれて来た。

5年前に初めて先生とドライブに言った時、
「僕ね、最近漸く線をかけるようになったの」
先生は楽しそうにそう言った。
車窓から、青々とした木々が次々に現れては消えていく。
車を進めるとだんだんその色が濃くなっていった。
海が近いんだな、と思った。
「細かい細かい点を打つように線をかくことが良いんです」
やがて水平線が遠くに現れた。
私の中でその言葉は、2つの昔の記憶と結びつき像を結んだ。

一つは、中学生の頃に楽器工房で音のグラフを見た記憶だった。
密度が高い材質を使用した楽器の音の波形は、まるでピクセルの数の多いカメラのように、解像度の高い図形を描いていた。
一方で密度の低い楽器は、波形のひとつひとつが曖昧にぼやけていた。

もう一つの記憶は、中学の最初の数学の授業だった。
「線は、点の集まり」
春の暖かい昼下がりの教室で、教師が黒板に書き付けた文字。
真新しいノートの1ページ目に刻んだその文章。
余りにも簡素なその定義は、テストに出そうにもなかったので、私はすぐにシャーペンの芯をしまった。
その頃の私は、人間関係や変わっていく自分の身体に対応するのに必死で、そんな定義など、暗記は出来ても深く考える余裕がなかった。
私は世界の真理を求め、新緑の眩しい窓の外を眺めていた。

気が付いたら、私はシャンパンも白ワインも飲み干していた。
「次はメインの肉料理です」
というケルナーの声に、先生が私のためのワインを注文した。
一度まっさらになったテーブルに運ばれて来たのは、ベーコンの絵が描かれたシャトームートン ロートシルトだった。
ワインのラベルになっても、彼の絵はしっかり私の心に像を結ぶ。
お酒を飲める年齢になったのに、私は幼い頃に教わった教えのひとつひとつの意味を回収しきれていないのだ。
世界の真理なんて、世界を眺めていたって見つからない。
手に入れた武器を、磨き続ける毎日を疎かにしていては、武器を使いこなすことは出来ないのだ。
深くねっとりとしたワインの香気が、鼻腔に抜ける。
僅かにグラスから垂れた雫が、白いクロスに赤い染みを作った。

「何年、生きたらわかるんでしょうね」
私の唸りにも似た言葉に
「わかるまで生きないとね」
と先生が答えた。
病気をしてから、先生の食事の量は減った。
私の皿よりも小ぶりな盛り付けの鹿肉に先生はナイフを差し入れて素早く食べている。
複雑な風味のソースのかかった肉料理は、少しでも十分満足できるほどに濃厚だった。

近くのマリーナから、ヨットの金具がぶつかり合う音が聞こえてきた。
乾いた金属音は風に吹かれて海上に舞い上がる。
私は、また昔の記憶を思い出していた。
遠くに見える水平線の、その先まで到達すれば、そこには線が横たわっていると信じていた記憶を。
今なら知っている。
海の果てまで行っても、そこには水平線は無くて、有るのは水の粒だけなのだ。
そして見上げればまた遥か遠くに水平線が見えるのだと。
先生の見ている水平線はどんなだろう。
それを構成する水の粒を私も見たい、そう思った。

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別荘に一人で滞在していたら暇すぎて、一気に書いてしまいました。

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