私が留学した理由

「お母さん、自分と同じ道に進んでくれて喜んでいるでしょう」

「お父さん、自分の教える大学に娘が入って誇らしいんじゃない」

と声をかけられる度に、ちがーう!と叫びたくなっていた。私だけかしら。

私の両親は、娘が自分のやりたいことを見つけたことを喜んでいるとは思うが、自分の人生が肯定されたかどうかという点に関して言えば無関心だったろう(我が家は世襲制や自営業ではないので)。

森鴎外の愛娘・森茉莉のことが根本的に好きになれない。彼女のエッセイの中で彼女が森鴎外について書いている文章を読む度に不快な気分になっていた。
彼女のことが、「娘」という与えられたポジションを謳歌し、その世界から出て何かを掴むことをしなかった憐れな少女 としか思えなかった。

みんな、誰かの娘や息子や孫である。そこに甘んじていないで、未来で出会う自分の娘や息子や孫...に留まらず世界のようなもの...に伝えていくことのほうが自然なのではないか。それに自覚的な人の精神の方が、生命力に満ちあふれていて輝いているように見受けられる。

私は、両親の影響下にある学び舎から、飛び出したかった。

「教授の娘」「音楽家の娘(2世)」から一度解脱しないと自分のことが見えなくなる。そんな危機感を抱いていた私は、奨学金を掴み、留学先と教授を決めて、日本を飛び出した。母は、人生を漕ぎ出した私に言った。

「私達が提供したのは、大学入学までの支援よ。日本で音楽家になるときの最短で最善の道を与えた。けれど、そこを進むのはあなたの脚力にかかっているし、大学入学後に出会う人達と築く人間関係は、全てあなたが引き寄せたものだから、それに対して卑屈になる必要はない」

母は私をよく見ていた。私は別に表立って「●●さんの娘だからコネがあったのね」などと言われたことはない。けれど、コネがあったのは事実だ。私は父の同僚の先生の門下生だし、大学の教授には母の同級生だっている。言っておくが、このコネは入学試験などにおいては不利に働く。「鳴り物入りなのに大したことないわね」と言われたらおしまいだから。そう言われる恐怖に怯えながら、私は入学試験に臨んだ。

初対面の人に「●●先生の娘」と認識されることは、私の人生を萎縮させた。高校時代、芸大生と付き合っていたが、彼は「●●先生の娘と付き合っている人」ということで先輩や教授にも認知されていて、それはそれで心苦しかったようだ。彼は高校時代の先輩だったが、彼が一足先に芸大に入学すると、だんだんと彼は疎遠になった。

一年後に芸大に入学した私は、男性から食事や演奏会の誘いを受けることが増えた。私も気が向くとその誘いに応じていたが、やがて私が教授の娘であることが知られるようになると、潮が引くように彼らは去っていった。ビッチにもなれず、周りから丁重な扱いを受けて、私はおとなしい学生を演じるしかなかった(どこが??って言われそうだけれど、大人しくしてたんだよ)。

留学を決めてから、まず変わったのは、服装だった。それまでの行儀の良い柔らかい服装から、シンプルなセーターとジーンズで登校するようになった。「あなたって意外とスタイル良かったのね」「そういえば高校時代の体育の授業で体操着を着ていたあなたのスタイルを男性陣が褒めていたっけ」
人は、外見と肩書でしか他者を判別できない。直裁的な誘いも何度か受けたが、それは相手にしなかった。ただ、私は色々なものを棄てたかっただけだから。そうして身軽になった私は、海外に飛んでいった。その話はまた今度。

留学を終えて帰国するとき、私は精神的にとても参っていた。見通しの甘さや、慣れない地での裏切りや、文化の違いに、立ち止まり考える時間すら与えられないことで、私は窒息寸前だったのだろう。本当はもう少し留学しているつもりだったけれど、そんな余力は無かった。それほど強くなかった体も悲鳴を上げていて、気がついたら手術をしないといけなくなっていた。
私は、少しの未練と、深い安堵と共に日本へ帰ってきた。空港に降り立った時、夏の空気を吸い込んだ私は、その忌々しい湿気に涙した。母が私に以前伝えた言葉を思い出し、彼らの示した道がいかに恵まれていたのかを改めて感じた。ちょっと、悔しかった。

帰国後、暫く私は楽器を弾くことが出来なくなっていた。音楽の本場に「アジア人」として身をおいているうちに、自分が楽器を弾く理由がわからなくなってしまったのだ。
大切な存在であるから、向き合うのが辛くなることがある。心の目を開けばいつでも音楽が寄り添っていることはわかっていても、それに見合う自分でないことが苦しかった。

そんな折に、留学前にいつも仕事を共にしていた作曲家の友人から連絡が来た。「夏、日本帰国しないの?頼みたい仕事があるんだけど。君にどうしてもお願いしたくて」

私を求めてくれる人がいる、その嬉しさに、私はまた楽器を弾くようになった。単純過ぎる。でも、きっかけなんてそんなもの。

新しい人間関係を構築した上で、かつていたフィールドに戻ってきたら、私は「自分」になっていて、それから「自分」として仕事をこなすようになった。

現場で、母の同級生や父の教え子に会うこともある。しかし、かつて私を狭めていたそのポジションは、ただの記号と化した。楽屋や舞台裏の軽口の肴になるんだから、まぁいいやと思っている。親のコネはやがて色褪せ消えてゆく。あとに残ったのは、信頼という通行手形。

最近気がついたことがある。

「親のコネ」にこだわっていたのは、誰でもなく自分だったということ。その隠れ蓑を纏い、心の目を閉じてしまうのは自分だったのだ。心の目を閉じているとき、そのことに気がつかずに音楽から遠ざかろうとしてしまう自分の愚鈍さを、私は戒めながら生きていかなくてはいけない。

留学したことで、私は剥き出しの状態で勝負をすることを学んだのだろう。私はいま、自分の脚力で歩を進めている充実感がある。けれど、それは私だけの力ではなくて、自分の周りの事象が全てあわさったことによって為されているのだと思うようになった。

最近、だから楽器を弾くことが楽しい。

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