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本当に大切なものはいつだって少ないから。


なんで、みんな『減らす』ほうに目を向けないんだろう。

どうして「正直しんどいです」と言いながら、さらに増やそうとするんだろう。


そう思う機会がここ最近多かった。

人間はとかく、増やすことにとらわれがちだ。


お金を増やす。

交流(人間関係)を増やす。

フォロワーを増やす。


実績が増えて、お金が増えて、注目が集まれば、人が寄ってくるようになる。多くの人はそれを望む。一見幸せになれそうだけど、面倒な関係も増える。自由ではいられなくなる。増えていく見えない荷物は、知らず知らずのうちに私たちを疲弊させる。自由を阻む関係は、私たちを強く縛り付ける鎖となって、私たちを苦しめる。


自分からはコントロールし切れないものを増やそうとする人たちが多いけど、増えたからといって幸せになれるとも限らない。お金持ちにはお金持ちの悩みがあるように、増えたら増えたで別の悩みが生まれてくるものだ。


増やすのは本当に豊かさのためか。失うことを恐れる恐怖心ゆえか。それとも、自分を誇示するための虚栄心か。


人間は、一度築いたものを失うことに対して恐れを抱くようにできている。それは一種の生存本能かもしれない。そこを、あえて減らしてみると見えてくる境地もあるものだ。


本当に必要なものはそんなに多くない


生活においても、本当に必要なものは実はそんなに多くない。


例えばコーヒーマシン。これは本当に必要だろうか?


正直な話、これはなくても困らない。時短のために買う人もいるかもしれないけど、本当に必要かというとそうではない。お湯、挽いたコーヒー豆、ハンドドリップ用の器具さえあればコーヒーは作れるのだ。ハンドドリップで丁寧に淹れればコーヒーも美味しくなるし、心も満たされる。


そもそも、コーヒーを飲まない人(やめた人)にとってはそのすべてがいらなくなるし、コーヒーは嗜好品なので、コーヒーがなくても生きてはいける。口寂しくはなるけど、なくなったら死ぬかというと全くもってそんなことはない。


高級化粧品もそうだ。高級化粧品を買えるほどの潤沢なお金を持っている人でも、スキンケアはシンプルに落ち着いていることもよくある。

健康に気を付けて、丁寧な生活を心がけていけば、それが巡り巡って美に還元されていくので、シンプルでよくなるのだ。


逆に、高級化粧品にとらわれている人ほど、根本が乱れていることも多い。ストレスが原因で肌の異変が止まらない可能性ももちろんあるけど、だいたいが、「睡眠が十分に摂れていない」「食事が乱れている」「体のケアができていない」「心の状態が乱れている」という理由に帰結する。そこに目を背けて、かけるお金を膨らませていく人のなんと多いことか。


かくいう私自身も、昔、その類に手を出していたことがあった。優越感に浸っていた。でもある時、自分の生活が苦しくなって生活レベルを下げざるを得なくなった。一度上げた生活レベルを下げるのは、一朝一夕ではいかない。


それぞれの役割に特化した、細かく分かれたスキンケア製品の本数を減らしていった。でも、減らすことを続けていくうちに私は気が付いた。「これは別になくても困らない。なくても死ぬわけじゃない。」と。

香りが気に入っていたから使っていただけで、効果をそこまで実感していたわけではない。香りがいいものならいくらでもあるし、別のものを探してみるのもいいかと、執着を手放すきっかけに変えたのだ。すると、思っていたよりも簡単に手放すことができた。

それを繰り返して、最後に行き着いたのは香りのないスキンケア製品だった。私が勝手に執着していたものは、なくなっても本当に困らなかったし、香りは別のもので補えばいいことがわかった。


極論を言えば、化粧品も”どうしても必要なもの”ではない。健康に気を付けて、よい歳の重ねかたをすれば、最低限であっても「男らしさ」または「美しさ」はついてくる。シンプルな美もまた、ひとつの美しさだ。


もちろん、「使い心地が自分に合っている」「香りがいいから」といった理由で、〇〇だけは使い続けたいとあえて選んでいる人もいると思う。その上での選択なら、必ずしも"浪費"ではないということは承知しているし、「何本も使っていたところを1、2本に絞って、その分少しいいものを使う」という減らし方もひとつだということは付け足しておきたい。


本当に必要なものは、実はそんなに多くない。


SNSでも、本当に必要な情報はそんなに多くない


増やすことにしか目がいかなくなるのはTwitterのようなSNSにも言えることだ。

フォローをたくさん増やしてタイムラインにとめどなく流れてきていた情報の大半も、いざ手放してみると、実は本当に必要な情報ではないことがわかる。身も蓋もない話ではあるけど、なくても困らないからだ。


逆に、多くしすぎたがゆえに、余計な情報に振り回されて、精神を消耗する荷物になる側面を持っているのがSNSだ。特に、もともと繊細な人が消耗していくのは、情報に"触れすぎている"ことが往々にして原因になっている。


もちろん、コンテンツを通して発信者を発信者たらしめる欠片(かけら)を知ることはできる。でも、フロー型コンテンツのほとんどは、次の日にはもう忘れ去られている。日持ちがしないのだ。「あぁ、こんな情報があったな」程度の記憶しか残らないのは、『ない』のとそう変わらない。数秒間、なんらかの感情を抱いたか、抱かなかったか。ただそれだけの違い。


それなら、最初から取らなくても変わらないのではないのか?
言うほど、人生が劇的に変わるような変化をもたらすコンテンツが、SNS(フロー型コンテンツ)にはあるのだろうか。


正しく選択することができるなら取りに行くのもいいと思う。でも、その取りに行く情報が本当に正しいか、なにをもって見極める? 

数字が大きいから? 数字があると説得力が増すから?

じゃあ、なぜその数字は正しいと思うんだろう? 数字は"作る"ことができる、真実を覆う霧だ。なにをもってその数字は正しいと断言できる? その人自身じゃないのに?

ひょっとしたら、相手は実在しない人物かもしれない。実名で公開している人ならまだしも、その人が本当に書かれている通りの人物なのか、私たちには確かめる術がない。


それほどに、はっきりしないものが"作られた世界"には多いのだ。

そのはっきりしないものを増やしすぎると、今度は自分自身がはっきりしなくなっていく。知らず知らずのうちに、真実を覆う濃霧は煙に変わって、自分自身を蝕んでいく。

だから、減らす。私たちの視界を遮る霧を薄めるために。霧を晴らすために。


知りすぎれば面倒な感情も増える。面倒を増やすことはすなわち、"平穏"な時間を減らすことになる。

世の中には、知らなくていいこともたくさんある。


最後に残る人間関係も実はそんなに多くない


人間関係も、最初は増やすところから始まるかもしれない。0の状態でいるのは誰でも辛いものだ。しかし、私たちが生きているのは「友達100人できるかな」などという幻想が実現するような甘い世界ではない。


最後に残る本当に大切な人間関係は、現実でもネットでも、実はそんなに多くない。


SNSでいうなら、フォローという数を増やすほど関係は薄まる。

つながりを増やすほど、それぞれとの関係を濃くすることはできなくなっていく。

濃くしたいなら、減らすしかない。


「つながりたい」と数を増やし続けたところで、薄ければ最後に残るものも薄くなる。最後になにも残らなかった時の、その虚しさたるや。


フォロワー数は自分で完全にコントロールすることはできないけど、フォロー数は自分次第で変えられる数字だ。自分でコントロールできるその数字が増えすぎたと感じた時に、あえて減らすこと。それは、本当は見たくなかった真実を私たちに見せる真実の鏡になる。


その関係は本物か。それとも、あっさり剥がれるメッキか。


真実を知ることは痛みを伴う。鏡に傷が入るたびに飛び散る破片が、私たちの心に同じような傷を作る。


相互フォローという関係をこちらから解消した時、「じゃあ俺(私)も」と簡単に無に還る関係。解消するのにどれだけの勇気を消費しようと、相手は「待ってました」とばかりにすぐ外すかもしれない。


結局、共通のなにかでつながっていただけの関係。それがなくなればもう役目を終えたとばかりに離れていく。でも、手放す勇気を持って、あっさり終わりを迎えたその関係を前にした時、私たちは気が付く。


「そういえば、一方通行だったな. . . 」

「特に深い関わりがあったわけではなかったな」

「そもそもどうしてつながっていたんだろうって思うほど、薄い関係だったな . . . 」

「ただ相互フォローでつながっていただけの関係が、いつの間にか重荷になっていたんだな . . . 」


フォロワーを増やすためにフォローをどんどん増やして、フォロー数が膨らんで、煩わしい関係が増える。それが原因でSNSに疲れる人を見ると、「あぁ、ドツボにハマってるなぁ」と思ってしまう。承認欲求の悪魔に捕らわれて荷物を増やしていった結果、荷物につぶされてしまった状態だ。私もそのひとりだった。


ただでさえ「情報が追い切れなくてしんどい時もある」って血を流しながら言っているのに、どうして自分からトゲを踏みにいくんだろう。数字を追いかけた先にあなたはなにを見ているんだろう。なにを求めているんだろう。それが本当にあなたの望むものなんだろうか。そこに"本当のあなた"はいるんだろうか。


私にも数を増やす欲求がないとは言えば嘘になる。でも、増やした結果、厄介な関係が増えてありのままの自分を出せなくなるのであれば、今ぐらい静かなほうがむしろ幸せなのかもしれないとさえ思う。そういう意味では私はSNSに向いていないし、運営側からあまりありがたいとは思われないだろうな。


でも、いいんだ。私は自由を望んだ。誰からも見られず、関心も示されない状態が続く可能性を受け入れて、のびのびといられる世界を選んだ。数字という呪縛が憑りついた鎧を、プライドという重りのついた外套(がいとう)を私は脱いだ。そう、減らしたのだ。


本当に大切なものを確かめるために。

最後に残るものはなにかを知るために。


減らして、減らして、減らして。

私の『減らす』に呼応して、『減りゆくもの』がピキッと鏡に亀裂を作る。1減るたびに飛んでくる破片。傷を作る大きな破片。傷を抉ってくる、塊のような別の破片。


無数の破片を裸のまま受けながら、傷だらけになった後に待っていたのは、身軽な世界だった。


「本当は離れたいけど、つながっているから外せない」という面倒な鎖がなくなった。

見に行くことはできるけど、疲れたら見ない選択ができるようになった。合わないと感じたら、自分の望むタイミングで自分の世界から手放すこともできるようになった。


減らす痛みを受け切ったからこそ、数字の呪縛が解けた。

真実が見えやすくなった。


減らしたからこそ、別のものを増やすことができるようになった。

いま残っている関係を、いま大切にするべき関係を濃くするための時間を。


最後に残るものはいつだって少ないからこそ、数字の呪縛を削ぎ落としていって、残った宝石を磨くのだ。


そう、自分にとって本当に大切な"宝石"を選別するために、私は減らす痛みを受け入れた。

だからこそ、減らした先に得られる自由と幸せを噛みしめることができる。

失うことはつまり、別のなにかを得ることでもあるのだ。


増やすには限度がある。減らすことで見つかる幸せもある。


"増やす"には人それぞれの限度というものがある。身の丈に合わない増やし方をすれば身を滅ぼすこともあるのが"増やす"行為だ。


一方で、減らすことは往々にして痛みを伴う。その痛みを負う覚悟を決めた人だけが、本当になにが大切なものだったのかを知ることができる。身軽になれる。目の前の幸せに気付くことができる。


「あぁ、ずっとそばにいてくれたのか . . . 」と、小さな幸せが実はとても尊いものだったことを、全身で感じることができる。


増やすことは減らすこと。増やすほどに真実が見えなくなっていく。
『減らす』ことはすなわち、本物を『増やす』ことにつながる。


これも、表裏一体


増やそうとするばかりではなく、減らすのも、悪くないものだよ。



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