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嘘ホントを見抜く

私たちはものごとを見るときにデッサンをしている。心は見たものを芸術的に映しだすアーティスティック?な気質がある。一見、見たものをそのまま映しているように見えても、実は過去の経験から『こう描いた方が美しい、これはこんな色だろう』などと色や形づけをする。またはその時の感情や感性によっても形を変えて描き出す。私たちは経験やそのときの状況によって曇ったフィルター越しにものごとを観ていることがある。


デッサン

絵を描くとする。「デッサン」は見たものを自分の感覚を通して紙に落とす。球体を描くときには、本物に線は無いはずなのにそれっぽく見えるように線を描く。こんな感じ?といった具合に影を滲ませる。さらにツヤを出した方が美しいと思えば、白黒の具合を描き足す。


写し絵

一方、トレーシングペーパーを使って「複写」をする場合。ほぼ自分のセンスなど抜きにして、ただそっくりそのままを描き写す。完璧とはいかなくともほとんど正確に複製したものが現れ出る。


デッサンは心の癖に似ている。出来るだけ正確に描こうとしていても、そこには自分のセンスやこだわりや固定概念が反映されている。観たモノを自分のスクリーン上に映しだすとき、そのフィルターを通すのが心の特性としてある。

なるだけ自分なりの先入観や今のまわりの環境、感情などを省いて、ものごとをただそっくり映し出すことができれば、今まで見ていたものはいかに自分で色づけしていたかに気づくだろう。

心のはたらきによって、過去の経験や環境を通してものごとを観ていることを知れば、その”色メガネ”を外す機会がやってくる。

井戸水は、一年中温度が変わらない。なのに冬に触れば温かく感じ、夏には冷たく感じる。水の温度が変わらないことを知っていれば、温水と錯覚することも、冷水と思い込むこともない。環境によってただそう感じているだけなのだと知ることができる。


心は芸術家のごとく状況に色づけをする。ほんものをそっくりそのまま複製することはほぼ無く、自分の感性のままにデッサンを描き上げる。

パートナーの帰りが遅かったときには、「かわいい子がいて気を取られていたのか」「さぞ酔ってフィーバーしてきたのか」「やましい気持ちでいるだろう」モヤモヤモヤ・・・。とばかりに・・。


もし「複写」のように、できるだけ正確な線、そのままの色、勝手な影を足すことなく、ただあるがままにものごとを見ることができれば、心配や不安などは自分が勝手に作り出していたという事に気がつくだろう。


心がつい手を加えようとするところを、ふと立ち止まってそのまんまを見ようとしてみる。

手付かずの自然が圧倒的に美しいように、細工されずにものごとを見ることはとても快い。心地が良い。


色々な経験が心の芸術家としてのセンスを磨くからこそ、心は豊かになる。しかし、ものごとを曇ったレンズ越しに見ることなくありのままを観るためには、心が芸術家の気質をもっていることを知っておくことは重要である。





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