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イエスマンキャンペーン

「私、イエスマンキャンペーン始めたから。」
ある時、友人がこういった。

ルールは簡単、基本的にどんな誘いにもイエスと答えることだ。

人を知ること、が目的だった。いちいちのお誘いの返事を悩まないで良いという効果もあった。私たちはそんな危ないところにいるわけでもなかったから、イエスと答えることで失うものは時間くらいだった。何か新しいものを得られるかもしれないと思えば、当時暇な大学生だった私たちにとって、時間はそれほど惜しいものではなかった。

友人は毎日のように、人に会った。部活の仲間と、同期と、先輩と高校の同級生と。そばにいた私には、寂しくもあり羨ましくもあったが、友人がはじめたそのキャンペーンにはのらず、離れて見守ることにした。


イエスマン、もう辞める。

1ヶ月が経った頃、友人はイエスマンを辞める宣言をした。

しばらく一人になりたい。ボロボロ、という言葉がしっくりくるような様子で友人はいった。それから数ヶ月経ったある時、「分かり合えない人はいる」そんな、よくありそうな言葉でキャンペーンを終えての報告が始まった。

私は笑った。「分かり合えない人はいる」なんて、そんなの始めからわかってたよ。友人は一緒に大笑いした。その後で大切なことを話してくれた。

いろんな人と会って話す。その中で相手について、そして人について知ろうとした。このキャンペーンをしていなかったら出会えなかった素敵な人たちと仲良くなれたことは本当に良かったよ。けれどやっぱり分かり合えない人はいた。分かり合えないなと思う相手と出会ったときは、徹底的に下手にでて、話を聞いて、考えを受け入れて受け入れて、そうやって頑張ってみた。でもやっぱりどこか、いやどこもかしこもなのかもしれないけれど、私が下手に回りきれてないところがあって、そのことに相手は気がついてしまうから、また威勢よくマウンティングするしかなくなるんだよね。

ただ、そういう相手に出会った時、可能な限り避けるほかないのかといえばそうでもないと思う。そうしてしまえば、楽なのかもしれないけれどね。本当は愛を持った人なんだけれど、そういう付き合い方しかできないということもあるんだよ。仲良くしたい、大切だ、愛したい、そう思っていてもうまくできない人がいる。それが伝わってきた時にどうするか、というより自分がどうしたいかは、その時にちゃんと考えて自分で決めたい。人には感情と理性があるからね。感情が先立って行動しちゃって、それで後から悪いことしちゃったって気がついて謝るってことはこれまで私たちにもあったじゃない。私は、自分の方が優れてるってことを誰かに認めてもらわなければ自分の気持ちが保てないわけじゃないから。そういう感情の発露を厭って、相手からの愛を見なかったことにするのは嫌だなと思ったよ。



私はきっと、イエスマンキャンペーンに参加しなかったんじゃない、できなかったんだ。それくらいにあの時は自分を守ることに必死だったのだと思う。勝手に攻撃してくる人がいた。それに対して私は、それまでの短い人生の経験から、攻撃から距離を取ることで身を守る術を一通り身につけたところだった。

そうして退避能力が高くなっていた私はたぶん、キャンペーンに参加していても友人が得たものにたどり着けなかっただろう。会う人会う人、ほとんど危険だと思ってしまったかもしれない。その先には、ひどく孤独な世界が待っていたのだろうか。

格別の信頼を置いているその友人との間でも、分かり合えないことはあった。それでもそこにはずっと愛があったからここまでいろんなことを話し、深め合えたのだろう。

辛いことや、困ったことから距離を取ることはすごく有用な選択だ。
ただ、その結果愛を向けてくれる存在に気がつけないのは、ちょっともったいないよね。


#エッセイ #コラム #友人 #人付き合い #イエスマン #愛

最後まで読んでいただきありがとうございます。こうして言葉を介して繋がれることがとても嬉しいです。