『万引き家族』ー生生しいしあわせと、ふしあわせ
いや、なんか、スルメみたいな映画でした。観終わってすぐは、あんまり来ないんですよね。いや、私がそうだったってだけなんですけど。観終わってぼんやりしていると、ちょっとずついろんなことが整理されてきて、はわわ、と思ったり、思い悩んだり、しました。
是枝監督は、社会の問題を、小さな個人の話で表現するのが、本当に、ものすごく、上手な人なんだと思う。この映画に出てくる”家族”って、もしかしたら隣の家にもありうるかもしれない、「生生しさ」がある。それはグロテスクだったり、泥臭いっていう意味だけじゃなくて、日々の食卓での会話とか、家族間の関係性だとか、それぞれのお洋服とか、お風呂に入ってしっとりしてる肌とか、部屋の中とか、それこそ、壁にかかっているカバンの一つをとっても、すべてが「生生しい」。
この「生生しさ」は「現実味」とも言い換えられるのかもしれない。
そんで、観ている私が感じるその「現実味」っていうのは、テレビや漫画で得たものじゃない。これまで生きてきて、自分の一部にあったり、あるいはとても近い身の回りに感じていることが元になっているんだよな。
だから、映画に登場する人たちもとても身近な存在、もしかしたら、隣の家にいるんじゃないか、同じクラスにいるんじゃないか、ぐらいのレベルで、あの家族の存在を見つめることになる。
決して褒められることばかりじゃないけれど、家族思いのそれぞれの気持ちや、ささやかな日々の幸せに共感して、「ああ、この人たちがずっと幸せでいたらいいのに」と微笑みながら考える。ずっと素麺食べててくれたらいいのに。コロッケを買い食いしてたらいいのに。仲良くお風呂入っててくれたらいいのにって。
たぶん、このとき映画のなかの家族と、私の距離感は0。隣にいる、もしくは軒先から一家を覗いてる、もしくはちゃぶ台で夕飯を囲んでる。「この家、きたないな~」と思いながら、ケラケラ笑ってる。
けど、そう思っていた矢先、状況が一変し、我々の知らない、テレビの向こう側から聞こえてくるような、家族の事情が明らかになって、急に家族との距離が引き離される。それは、私が「引いちゃう」のではなく、むしろ、映画が無理やり引き離しにかかってくるような。そんな感覚。ミクロからマクロになって、急にこの家族を俯瞰する視点が与えられる。
あるシーンでこの家族を報じたニュース(予告でもちらっと映っているかもしれない)が流れるんだけど、そのニュースは自分が普段テレビで観ていたら「うわあむちゃくちゃやん、悪いやついるな~」って思っているような報道なんだけど、この家族を知ってしまっていると、そんなこと言えない。
「この人たちは、そんなんじゃない!」って。けど、普段は、知らないことをいいことに、好き放題言っている自分にも、気付く。
はたまた、予告編でも(とても印象的に)流れる、家族の独白の場面。あそこでこれまで見ていた「家族」が露わになる。正直、万引きなんて大した比じゃないくらいの、エグい真実もある。けれど、やっぱり自分としては、それでも幸せだったと思いたい。子どもたちは、どんな事情があったにせよ、幸せだったと思うに違いない、って。
けど、それもエゴだなあと気付く。彼らが成人して、過去を振り返ったら、もしかして全然いい思い出なんて思っていないかもしれない。生きるために万引きをし、お金のために実親をゆすり、彼らのエゴのために名前を騙って、学校にすら行けなかったって。思うのかもしれない。
じゃあ、自分たちが観ていた「家族」の暮らしは、幸せは、なんだったんだろう。お風呂は、コロッケは、そうめんは、卓袱台は・・・。
この家族が、また再集合することは、たぶん、ない。最後のシーンが象徴するように、彼らの家が廃墟になったように。思い出として残っているものも無ければ、語り合う人もいない。ブラックボックス(使い方間違えているかも)が海底に沈んで誰にも発見されないみたいに。そのとき、家族に何が起きたのか、それまで、家族になにがあったのか、全てを俯瞰してみていたのは、観客しかいない。私しか、いない。
普段、いろんなニュースをみて、その報道だけを鵜呑みにして、俯瞰しているように思って、当たり前のように分かった口をきいている私。ドキュメンタリー映画を見て、その人たちを知った気になって、遠い誰かのしあわせを祈っている私。友だちの彼氏の話を聞いて、分かった気になって、アドバイスする私。そんな私とは、正反対に。
いろんな家族の形があると思う。いろんな人とのつながり方があると思う。いろんな人がいると思う。いろんな事情があると思う。その人のことなんて、その人自身すら分からないし、私がわかるはずもない。そんなの当たり前なのに、そんなことにすら気付くことなく、私たちは、何もかも見えてるような気になって、日々を暮らしている。
そんな中で、イレギュラーを見つけると、見ないふりをするか、珍しい者として取り上げて、大して分かりもしないのに、共感して、感動して、あるいは批判して、あるいは排除する。個人のふりをして、社会の物差しを振りかざす。
きっともし、私がこの映画に出てくる通行人A(もしくは商店街の店員さんB)だとしたら、きっとまた、そうしていただろう。あの家、あんなだったのね。怖いわねー。どうりで身なりが汚かったわね、うちも泥棒に入られたんじゃないかしらって。きっと噂していただろう。
けど、あの家族の「全部」を見てしまった今、私はもうそんなことは言えない。そもそも「全部」が観れる時点で、私はあの物語の中にはいない。けれど、あの物語にとてもよく似た、むしろ、全く同じ世界の中に、私はいる。
そんな矛盾を目の当たりにする映画だった。この映画を観て「すべてを俯瞰することはできない」って当たり前のことにショックを受けた今、じゃあ私は、すべてを知って・見て・理解することは絶対にできない世間の物事を、どうやってみていけばいいんだろう。…なーんて。
(ただ、みんなで行った海が、寒そうだったけれど、とても曇っていたけれど、とても楽しそうだったことだけは、きっと、幸せな、楽しかった瞬間として、みんなの中に残るんじゃないかって。それも、ただの願望なだけなのかもしれないけれど。)
※出演されている安藤サクラさん主演の『百円の恋』という映画のレビューも、実は書いています。タイトルに合わせて値段を100円にしているのですが、もしもお財布のご都合よろしければ、そちらも併せてお読みください。とてもいい映画です。感想も、短くまとまっていて、まあまあいいこと書いてます。や、うそかも。→https://note.mu/nanako0107/n/na3656c32726a
いただいたサポートは文化・娯楽へすべて注ぎ込みます