わたしのこと vol,2

わたしの家は、曽々祖父の頃から職人の家系だったので、

とても真面目な家族だった。

だからか、わからないけれど、小さい頃から、わたしは、外側の世界と遊ぶよりも、内側に篭って遊ぶことが多かった。

人と遊ぶことも好きだけど、自分の中でストーリーを作ったり

そんな風に遊ぶこと。

しかし、周りの大人たちは、それじゃ駄目だと心配していたんだろうな。

早生まれで、小さく病気がちだったために、いろんなことが、人よりも遅れて、できるはずのことができなかったり。

だから、ずっと内側の世界を旅している女の子だった。

祖母は、よく見えない存在とおしゃべりするような、面白い人だった。

共働きの両親に替わって祖母に育てられた。

祖母は、自然さんたち、木や鳥や、虫や、そういう自然界のものとの

話し方を教えてくれたりした。

「ごくろうさん」よく声を掛ける人で、なんでも見えない世界の理や、

見える世界のことでも、道理みたいなものを知っている人だった。

わたしは、おばあちゃんが大好きで、よく山に散歩に出かけた。

山を走り回って過ごした子供の頃。

おばあちゃんと一緒に草むしりしたり、自然に声をかけたりしているときの至福感は、どんなことにも代えられないことだった。

けれど、両親はあまりそういうことに精通していない。

よく怒られていた。あまりにわたしがぼんやりしているから。

ぼんやりしているときは、内側にいるとき。そういうことがうまく人に表現できなくて、話せなくて、父母とはだんだんにずれていってしまった。

素直になれるのは、おばあちゃんといるときだけ。

そして、大の親友の愛犬といるときだけ。

死にたいと思ったのは、小学4年の頃には思っていた。

自分の居場所ってどこにあるんだろうかって、ずっと探していた。

人と違う感性だとか、みんなと同じように思えないとか、できないとか、

学校を楽しいと思ったことなんてあまりない。

学校に行かされて、行きたくないから、具合が悪くなって、

いつもあっちこっちどっか悪いわたしを両親は、心配もしたけれど、げんなりしていたと思う。

一番何でも話せる愛犬が亡くなって、心のよりどころが無くなってしまって、

立ち直るのに、3年かかった。多感な思春期に。

今だったら、少し市民権を得ている、過敏性大腸症候群も、当時はそれを診断できる医師も少なかったのか、

整腸剤を渡されて、気の持ちようだと、コンコンと話してくれるお医者さんもいた。

家では、痛みがあっても、「痛いと言うな」と親に言われ、学校も行かされていた。わたしの一番の地獄だと思った日々。

周りと同じように、ご飯が食べられない。昼食の時間も、休憩時間も、何もかもが本当に辛かったのに、それを人に説明できない。拒食症にもなった。

医者に行けば、何かしら診断名がつけられて、規律性なんとか~

自律神経がなんとか。

より一層内側にこもるようになった。家族にも祖母以外に心を開かなかった。

あまりの辛さに、高校を卒業したとき、3日くらいしたときには、高校時代の思い出がほとんど思い出せなかった。意識の底に沈めてしまったようだった。

それでも、正気を失わないでいられたのは、創作があったからだった。

人に求めず、ひたすら紙の上に向いた。

心開けない自分の中のいろんな未消化なことを、ひたすら紙の上に書いていった。

遺伝的に、職人の孫なのだった。ひたすら紙が友達だった。

それなりに、高校でも友人はいたけれど、誰も知り合いがいない東京に進学した。

誰も自分を知らないところに行きたかったからだった。

そして、そこでたくさんの友人ができた。生涯真友といえる人にも会えた。

自分は、なんて狭い世界にいたのだろうかと、知った。

田舎だったから?情報のない土地だったから?うちがそうだったから?

でも何かはわからないけれど、右をみても左をみても、みんなが自分の先生だった。

18年かかって、内側にいた自分、そして大きく家族に守られていた自分、

それを、違うんだよ。こうだよ。

外の広い世界からみて、教えてくれる友人、先輩に恵まれて。

水を得た魚と思えた時代だった、大学の頃。

けれど、内側につながることが無くなっていったわたしは、やっぱり迷うようになってしまった。

子供の頃からやってきたこと、安心できる世界は、わたしにとって

内側の世界だった。

大学の先輩が、言っていた。

「本当にやりたいことは、何年かかっても、また戻ってくるから」

そのときは、あれほど書いていた創作意欲はいつ戻ってくるのだろうと思っていたけれど、それからずいぶんたって、10年以上たってから

書くことを真摯に受け止めている自分になった。

書くことは、息をするのと同じことだった。

母は、昔デザイナーの仕事につきたくて、デッサンを持ち込んで面接まで受けたのに、

当時、女だからということで採用してもらえなかったと言っていた。

そのことを大分、気にしているらしく、ことあるごとに、私には、

デザインだとか、絵とかそういうのよりも、資格をとれと言っていた。

女性だからって落とされたんだ!って。だから、普通の会社員になったんだって。

母には、その選択肢しかなかったのかもしれない。

けれど、今、わたしは書くことが好き!と言える時代にいるからか、

そんなにデザインやりたかったら、描き続ければよかったのに、と思う。

わたしは、誰かが、書くことを止めろと言ったとしても、やめることができない。呼吸と同じことだから。

息をするのと同じことだから。誰かのために、誰かに承認してもらうために、

書いているのではないから。

書かずにおれないからだ。

定年がない、生涯の仕事(紫事)だと思う。

でも、ここに来るまでも長かった。

思えば、子供の頃になりたかったのは、漫画家だった。

今でも、漫画家になりたい。

職人家系、霊感家系、わたしを創るいろんな要素があるけれど、

どれもこれも、すべて今の自分に繋がっているんだなと思っている。

食事が取れなかった、学生時代。

だから、食に興味が出て、いろんな飲食店でバイトをして、

人に料理を振舞ったりするのが好きになった。

病気がちだったから、影の人の気持ちがわかる。

自分には、いろんな感性をいただいている。

神様がそうさせてくれている。

だから、この感性を殺そうと思っていた時期もあったけれど、

今は、それを受け止めて、受け入れて、

作品を作ろうと思う自分に、変えることができた。

病気があったりしたから、自然療法にも出会った。

医者では治らないこともあることや、

病気は、人が決めたものだなということも思うようになった。

それよりも、

自分にしかできないこと、

この変な感性(今は旦那に変人と言われている^^笑)も、

辛いことも体験したから、人の痛みわかるようになった自分がいれて

良かったと思うし、

わたしの感じる見えない世界も、そこでわたしを見守って支えてくれている人たちのことも、

やっぱり大好きだから。

書いて、書き続けて、

自分にしかできないことに目をむけていこうと思う。

今はもう、いない祖母も、祖父も、

見えなくなってからも、話したりする。

今日も温かい気持ちになる。

きっと、どこかの誰かの温かい想いが、わたしを守ってくれているのだと、

想う。

そして、わたしが想ってきた人たちへの、

自分のかけた愛情も、今日のわたしを支えてくれているんだな。





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