リリのスープ 第一章 脱出

リリは日記のはじめに、こう記した。

「いとしくて、その会えない切なさをたとえようもなく感じる時間は、わたしに多くの恵みをもたらしてくれたのだろうか。
わたしが、ここに記されるまでの長い間、ただ眠りにつく姫であればよかったと思わぬ日はない。
わたしが、目覚めてから最初に見る顔が貴方であったら、それだけで人生が色づいているものだと理解できるのだ。
逢った瞬間にわたしの中の何かを思い起こさせる。
それが、わたしの中の一番大切で懐かしい場所からやってくるような
甘いミルクのようなひと時、その瞬間を呼び起こさせるような人。
目の前に逢った瞬間に、気絶してしまう。
わたしが、あんまり長い間待ちわびていて、それが成されなくて、悶絶し、苦しくて切なくて、泣きたくて、それを忘れたくて、そんな相手だったから。
女が紐解いてゆくわが身に起こる人生の謎を、男は決して理解できないだろう。
わたしには、いつのときも、恋が必要なのだ」

ナディンが、彼女のもとをおとづれたときは、すでに彼女は目を腫らして泣いていた。
学生の頃からの付き合いになる無二の親友ではあるけれど、彼女の突飛な行動には
いつも驚かされ、とまどい、それが彼女リリなのだとわかるまでには、数年来かかった。
そして、今日もまた電話ごしに鼻をすする声で『泣きたいの』と言われ、
急いできたナディンが家のドアをあけると、リリの目は真っ赤にはれていたのだった。

「どうしたの?どこか悪いの?」
そんなにどこか痛いくらいで、リリは自分を呼んだりしないことはわかっていたが、ナディンは
優しく彼女に声をかけた。
「あたしね、やっぱり生きていても仕方ないんじゃないかと思うの。そう思ったら、いますごく悔しくて悲しくて泣けてきたのよ」
「なんで、そんなこと思ったの?」
「だって、あたしには運命の人っていうのが、さっぱりあらわれないんだもの。好きになる人がいても、その人が、魂をかけても愛したい人かっていうのとは違うわ。現にデイが、そうだわ」
ナディンは、リリをなだめるように、隣に座った。彼女はお気に入りの花柄のベッドカバーの上に座って外を見ていた。彼女が本気で泣いているのがよく伝わってくる。
「どうして、急にそんなこと思ったの?デイと何かあったの?」
「デイとは何もないわよ。何も本当にないの。でも、あたしの魂を理解したり、何か人生の喜びをどうとか一緒に分かち合うには違う相手なのは確かなのよ。
結婚しているのに、こんなことをいうのは、神様からお叱りを受けるかしら。
でも神様やあたしに、いいことをしてくださろうと思う聖人君子たちや精霊たちにも、自分の気持ちをしっかり伝えておくのは、そんなに悪いことなのかしら。あたしは、いまのままでは、この家の中で主婦っていう仕事に殺されてしまうわ。子どもを育てて、自分の家族のためだけに、自分の時間もなく、夫を支えてっていう尺ズが、何かとんでもなくあたしには長い牢獄に入っているような気分になるのよ。きっと精霊や神様たちは、このよりよい生活の中から幸福をみつけだしなさいとおっしゃるかもしれないけれど、あたしにはいまはとてもそんなことは無理だわ。だって、毎日つまらないんだもの。
デイを好きなのには変わりないけれど、とろけるような恋ではないし、始めから安定してるような人で、決してあたしに取り乱したりもしないけれど、自分を出したりもしない。同じテレビを見て、ちっとも感想を分かち合えないような人といて、楽しいって思えるかしら?
そんなことを考えていたら、恋してみたいなと思ったの。いいえ、正確には違うわ。あたしには運命の人がいるのに、まだ出会っていないのよ。
だからこんなに、相手のことを考えると苦しいんだわ。運命の人って、いうのはね、逢った瞬間にわかるもんなの。この人に逢うために、あたしは生まれてきたんだって思えるような人のことなのよ。そしてとろけてしまって、抱きしめられると気絶してしまうの。魂全部をかけても、やっと出会えるようなタダ一人の唯一の人のことなんだもの。そしたら、その人と合えたことに感謝が限りなくあふれてきて、あたしのすべてを満たしていくの。内臓器官やすべての過去もそれでとろけてしまうのよ。そんな運命の人に逢いたくて、あたしは毎日からぬけだしたくているのよ。ナディン聞いてる?」
ナディンはリリの話がまたいつものように、想像力豊かに膨らんでいることに笑いがこみ上げてきていた。彼女はいつもこういったことに真剣なのだ。そして、そのことを理解してあげられているのは、自分くらいだろう。リリの夫であるデイは、物静かな人で、理解していたとしても、それをリリにあらわしたり、感情を受け止めようとはしない。ただ黙って見守るような人なのだ。そこにいつもリリが
不満を抱いて、自分に文句を言いに来るのだが、リリにはわたしのような人がいないとダメなのかもしれないと思った。
「リリ、それでどうしたいの?」
「それを一緒に考えてほしいのよ。あたしったら、あなたしかこんなこと話せる友達はいないのよ。だってこんなこと言ったら、いい大人なのに、何をバカなことを、ってきっと言われちゃうんですもの。そして、デイにもあなたしかいえるひとはいないの。」
「あたしが、デイになんていえばいいの?」
「リリは、毎日の生活につかれちゃいました。だから運命を探すたびに出たいそうです。って言ってくれればいいの。」
「でも本当に旅にでるの?あなたのおかあさまもそれを許さないんじゃない?」
「そこなのよ。大きな問題は、あたしにいくら大きな羽根がはえていても、翼を閉じるようにしむけれられちゃうってことなの。でも、こんな大きな翼をもっているのに、自由に飛ばないなんて、生きている意味なんてあるのかしら。あたしは、地面を這うようにして生活するなんてまっぴらなのよ。そんなことするくらいなら、舌をかむわ」
リリは、そのころ流行っていたドレスや、巻き毛のカールなど、まわりの女性たちがこぞって何かの流行に追われているのを横目に、自分流の好きな格好をしながら行きたいように、暮らしていた。流行に左右されたりはしないかわりに、誰かに面と向かって、言いたいことをいうとか、やりたいようにやるってことができなかった。だから、いつもそんなときは、自分が側でフォローしなければならなかったのだ。彼女が好きなことをいって、甘えられる相手がいるとすれば、デイではなく、ナディンだったのかもしれない。ナディンはそのことをときどき心配していた。もし自分がいなくなっても、リリはいきていけるのだろうか。

「ねえ、ナディンきいてるの?あなた、あたしが、泣いているのに、何をほかのことを考える必要があるのよ。それでね。あたしが、運命の人を探すたびっていうのは、この小さな田舎町じゃ見つからないとおもうのよ。あなたもついてきてくれるわよね?」
ナディンは賛成しなかった。
「どうして?なぜなの。ナディン」
「リリ、あなたが毎日そんなに不満があるってことをデイにちゃんと伝えたほうがいいのだとおもうけど、デイだってあなたを愛してるんだから、悲しむと思うわ」
「デイの話はいいのよ。あたしこんなところに毎日いたら、どうにかなっちゃうわよ。どうして、あたしもっと飛んじゃだめなの。どうして、結婚して、子どもが生まれると、遊んだり飛んだりして生きられないの?」
リリの悲しみは、本当に深いようだった。傍目には、とても幸せそうに見えていたが、彼女の心の中にある、満たされない思いに気づいている人は、わずかばかりだっただろう。そして、それが、どうあってもみたされないものであるというのことに気づいていないのは、彼女本人も例外ではなかった。彼女がいつも、友人のナディンに話していることは、親友と出会う前までは、愛犬に話していたことだったのだ。彼女は幼少の頃から、おとなしく一人であぞぶ事になれていたが、まわりと何かを一緒にやることや、まわりと分かち合うことができないことが多かった。彼女は彼女なりの哲学や価値観があり、それをまわりと分かち合うとすれば、共有できないことのほうが多かったからだ。彼女がそれゆえに、だれにも心を開けずに、孤独な毎日を送っていたことは、容易に想像がついた。彼女の心を支えていたものは、彼女が一人であることの価値観を誰にも頼らずに、自分だけに課していたことだったから。
そして、彼女の本当の強さとは、だれにも頼らずに自分を持っていることだったのだが、このことを彼女本人も気づいていない。まわりと自分は違っていて、それがどんな意味を成しているかなど、
わかることはできなかった。

ナディンは、リリに優しく話した。
「ねえ、あなたがどんなに悲観しようとも、家族は、あなたを愛しているわよ。それに、もし旅に出るとしたら、子供たちはどうなるの?」
リリは、さめざめと泣いていた瞳をこちらに向き直すと、強いまなざしでこういった。
「子供たちのことも、そうよ。
わたしは、自分の人生のとても大切なことのために、家族がそこにいすわらなきゃいけないなんて想わないのよ。わたしには、いまこれがとても必要なのって思えることがあるのに、子供たちの世話にあけくれているのは、納得いかないことだもの。
これは、きっと神様でもそう想うと想うわ。
わたしという人間をお作りになった神様なら、きっとわかるはずよ。
リリには、大切なことがあるのに、家族の犠牲になってちゃいけないってわかってくださってるわ」

ナディンは、はぁ、とため息をついた。
自分の力でどうにかして、リリの言い分を変えるなんてことは、できないのだった。
いつも彼女の話は、突拍子もないかわりに、とてもまっすぐで計算のないものだった。
どんなことでも、ナディンには、打ち明けている彼女だったが、それを飽きることなく話に付き合いながら聞いているのは、そういう純粋でまっすぐな彼女の言い分が愛しくもあり偽りないものだと信じられるからだろう。

ナディンは、少し落ち着くようにと、ロゼルのお茶を入れてあげた。
彼女は、紅く色味がかったお茶に、自分の顔が映るのをながめながらだまって、すすり飲んだ。リリの中では、大きくて、衝動的にやってくるものの正体がよくわからなかったけれど、自分自身が、いまのままでは、どうしてもいけないんだということしかわからなかった。
旅に出ようといったのも、本当に旅に出ていいのか、はたまた、旅にでたからといってどこに行ったら自分の運命を預けられるような男性と出会えるのかなども、検討もつかなかった。
けれど、そんなことを計画的に考えるような、狭い思考をしていないのも彼女だった。
想ったときに、その通りに動くのが、いままでのリリの慣わしだった。
それが一番シンプルで、自分に嘘がないことだったし、衝動のままに生きているときが、難しいことを考えないですむ正直で安全な近道だった。
少し落ち着いて考えてしまえば、デイと子供たちのことを置いて、どこか遠くへ旅に出るなんてことは、できそうもない自分がいた。
けれど、身体の底からわきあがるような切望をまるで何もなかったことのように、無視してしまうのは、同じ生活を繰り返す日々の中に浮かぶ一点の消せない黒い染みのように後味悪く残してしまうことは、想像がついた。
リリは、この今の生活から逃れたいという切望が、おさまったとしてもまた自分に舞い戻ってくることもわかっていた。
悲しかったのだった。同じことを繰り返す毎日の中に、自分の喜びがだんだんに見出せないのに、それが、周りから女性として幸せなのだと押し付けられることを受け入れられるほど、リリの思考は簡単にできていなかった。

黙ったまま、何かを考え込んでいるリリの側で、ナディンは、彼女が戻ってきてくれることを願っていた。
少し落ち着いたら、考えも変わるだろう。それがまた発作のように彼女に舞い戻り衝動へ導くものだったとしても、今少し落ち着いてくれれば、と。

リリは、少し遠くを見るようにして、窓辺にすわった。
昼下がりの時間の、まったりとした時間がすぎていった。

すると、
「あっ!」

リリが叫んだ。
「デイが帰ってきたわ。」
ナディンに向き直ると、リリは、早く!といわんばかりにナディンにせっついた。

「あたしは、デイには会わないわよ。
会ったとしても、今の決意は変わらないし、この気持ちに嘘がない以上、デイには会えないわ」
ナディンは、はぁとため息をついた。
「あたしが、デイになんて言えばいいの?旅にでるそうよって言えばいいの?」

リリは、少し考えたかと想うと、
「リリは少し家を出ますけど、何も問題ないからと言ってくれればいいわよ。」

ナディンは、階下に下りていった。
玄関のドアのところで、デイがいるのを見た。

「こんにちわ」
ナディンはそう言って、デイに歩み寄った。
デイは、知人宅で家屋の修復や野菜の荷積などを手伝って帰ってきたところだった。

「やあ、ナディン来ていたんだね」

屈託なく笑いかけてくれるデイに、なんて言えばいいかナディンは心が細るような想いだった。

「あのね、デイ。リリのことで話があって、来たんだけど。」

ナディンの気がかりをよそに、デイは、変わらず、うんとうなづいて見せた。
リリがどんなに悩もうとも、デイは変わらずデイだった。
彼女がどんなに繊細なことで頭を抱えても、デイはその内容に触れ一緒になって頭を抱えない代りにそのままの彼女を愛していた。
リリにとっては、一緒に考え悩み、よき相談相手となってくれる、いわゆる魂よりそいし仲となることを望んでいたのだ。
その願望をリリがぶつけたとしても、彼は、今ナディンの目の前で笑いかけるように変わらぬ笑顔で接したことだろう。

「デイ、あのね」

そういいかけて、ナディンは、口を開くのをやめた。
野菜を運んだ木箱やら、ロープをかたづけながら、話を聞こうとしているデイをみて、
ナディンは、思った。

きっと、この人に話しても、リリのことをわからないんじゃないだろうか。
この人にとって、毎日の生活はありのまま、そのままで、何も問題なくすばらしい世界であると思っているのではないだろうか。
そんな人に、リリの話す、想像力豊かな、妄想を話しても、ましてや、運命の話をしても、デイは、その話をそのまま受け止めて、ニッコリ笑うだろう。
きっと、それが、どれほどリリにとって、大切か、いまそのことでリリがどれほど、苦しいかなど、この人には、わかるはずもないのだ。今、この人にとっては、目の前にある生活すべてが、何も差し障りも無いほどに、穏やかで、豊かで、幸福であるはずなのだ。そんなことを、リリにとっても、わかるはずがない。リリは、自分の気性が、デイにはわからないと思っていることも、彼は、そのままの彼女を受け入れ、愛し、そして大切にしているのだろうから。
リリの話のすべてを話そうとしても、きっと彼には、本当の意味で、理解したり受け入れられないだろうし、そんなリリのまんまをただ彼は愛しているのだろうから。

ナディンは、とっさに嘘をつこうと決心した。

「あのね、リリがね、この間転んだところの腕がまだ痛いらしいのよ。それで、家事ができないっていうから、わたしが変わりに手伝いに来てるのよ」

デイは、「え?」と少し驚いたようにしてから、

「そうなんだ。ありがとう。それで、リリはまだ痛いのかな」

ナディンは、しどろもどろになりながらも、

「そ、そうね。けれど、子供たちの世話も、まだ手がかかる時期だし、一日中家にいて、大変なようなのよね」

デイは、二階をみながら、

「そうかあ、俺がもう少し家にいて、彼女を手伝ってやれたらいいんだけど」

ととても、切ないような顔をした。それをみて、ナディンは、デイの性格のよさと、本当に彼女をいたわり、大切にしている気持ちを感じて、彼を受け入れられないリリと彼女のために今小さな嘘をついている自分を恨めしく思うのだった。

「いいえ、デイ、あなたはよくやっているわよ。コリンやバーバラにとってもいい父親だし、友人のわたしからみても、あなたはとてもよくやっているいいハズバンドよ」

デイは、少しはずかしそうに、こくんとうなづき小さくお礼をした。

「けれど、リリをもう少し、自由にしてあげられたらいいんだけどな。きっとガチがちにがんばってしまう性格だろうから、家のことを彼女に任せてしまっていたら、彼女は疲れすぎてしまうんじゃないかなと思っていたんだ」

ナディンは、穏やかで、ゆったりした大地のようなデイが、なんと彼女の性格を読んでいたことに、驚きと新鮮さを感じた。

「まあ、デイ。あなた、そんなことまで考えていたのね。きっと彼女が聞いたら嬉しがるはずよ」

そういうと、デイは、

「ナディン。きみには彼女もいろいろ話すと思うから、いい相談相手になっておいてくれね。彼女はとても繊細だから、決めた相手にだけ打ち明けるだろうから」

そういって、荷物の整理を終えた。

ナディンは、思ってもみなかったような風の吹き回しに、思った。デイに、いっそのこと話してみたら、もしかして解決するんじゃないだろうか。

ナディンは、あまり人に嘘をついてきたことがなかった。デイに対しても親友のハズバンドということもあったし、とても穏やかで優しい人なので、つく嘘というものがこれまでなかったのが、今はじめて嘘をつこうと思った。


「デイ、それでこれは提案なんだけど、わたしの母方の姉がね、ここから二つ街を越えたところに農場を持っていて、そこが避暑地にはとてもいいところなのよ。腕の傷といっても、見た目にはもうないのだけれど、毎日ここで家のことをやったり、子供たちの世話をしていたんじゃ、治るものも治らないんじゃないかしらと思って。いっそのこと、2週間ほど、リリを叔母のところで保養させてみるっていうのはどうかしら。新鮮や野菜や果物もあるし、そこでとれたハーブでつくる叔母のジャムはとても美味しいのよ。リリにも食べさせたいし、彼女の腕にもいいんじゃないかと思って」

そういうと、デイは、その提案をゆっくり考えているようにしてから、

「そっかあ。リリはそれがいいっていっていたのかい?」

「リリには、これから話すけれど、あたしが勝手に考えたことだから」

そっか、といって、ちょっと考えてから、デイは穏やかに口をついた。

「じゃ、うちの母にきてもらうことにするよ。リリがいない間の家事や子供の世話をしてもらうように。孫の相手をするのも、いい運動になるだろうし、母も孫と会いたがっているだろうから。適当に、俺から、リリは遠くの町で開かれる同窓会に出席することになったからとでも、言っておくから留守の間は心配ないよ」

「わあ!本当に?きっと叔母のつくる野菜や、ジャム作りが、リリのいいリハビリになるはずよ」

そういって、喜ぶと、デイは、よろしく頼むね、と言って荷物をもって奥に入っていった。

ナディンは、話しがうまく通ったことでホッとしたが、デイの根底からの人の良さと温かさを感じて、リリの申し出を受けてこんな嘘までついてしまった自分が、後ろめたく胸がぎゅっと苦しくなった。

少しの重い足取りで、二階へいくと、リリは、窓辺にあるベッドにすわり、窓あけ、外を眺めていた。
風にゆれるレースのカーテンや、新緑の葉からもれる木漏れ日の中に、リリはいた。


戸をあける音をきいて、振り向いたリリは、もう泣いてなかった。
何かを決意し、振り切ったような顔をしていた。

「リリ、話してきたわよ」

そういうと、リリの表情はぱっと明るくなった。

「ねえ、なんて話したの?それで、デイはどうだって?」

デイにいった嘘のことや、そのままを話して聞かせた。
そして、彼が承諾したことを話したとき、リリは小さく雄叫びをあげて、喜んだ。


「ナディン!なんて、あなたは賢いの?あたしそんな嘘、考えもしなかったわ!デイもそれを許してくれたなんて」

と言ってはしゃいだが、ナディンは話しているうちに気分がすぐれなくなっていった。

「リリ、あなたは、あんなにいい旦那様がいるというのに、どうして運命の相手をさがしにいくだなんていうのよ。あたしは、あんな聖人のような人に嘘をついてまで、あなたの肩をもったりして、これで何かことが起きちゃったら、一緒に地獄行きだわ」

そう、口にすると、本当に地獄に行きそうな気がしてきてますます気持ちが滅入りそうになった。


「あら!ナディン、そんなこと思わないで。だって、仕方ないじゃない。デイが聖人のようだっていうなら、わたしたちは、間違いなく、小悪魔のようでしょうよ。だから、この家が息がつまるのよ。わたしが、思い描いていることをやるためには、この家に流れている穏やかさがあわないのよ。このままここで一生終えたんじゃ、あたしは間違いなく聖人様にはなれないわ。それに、じゃあどうして神様は、こんなこらえ性もない性格にわたしをお作りになったのかしら。そっちのほうが、うらめしいわ。家にいて、家族とだけ過ごして、それで満足って女に生まれたなら、こんなことにはなっていないはずだわ。それができたら、わたしもどんなに幸せかって自分でも思うのよ。けれどどうしてか、わたしを旅させるように、神様がお作りになったとしか思えないわ。こんなに家に居心地がわるくなるのは、わたしだけのせいじゃないと思うのよ」

そう、リリは自分ならではの正論を言っていたが、ナディンの耳には、遠い潮騒のようにしか聞こえてこなかった。

ああ、自分はなんてバカなことをしたのだろう。
この子と自分は、なんて罪作りなことをしたのだろう。ドサクサにまぎれて、『わたしたちは、間違いなく、小悪魔』とリリが、言ったのを耳にしてはいたが、そこに異議を申し立てる気力もなくなっていた。
リリをみれば、彼女も何か考えているようだった。無理もない。自分の気性で、ここまで話が大きくなったけれど、実際デイにしてみれば彼女はとても大切な妻であり、女性であって、それもリリは十分に理解しているのだった。彼が、ナディンの作り話を疑うこともせずに、リリを心配して彼女のためにと旅を承諾してくれた彼の優しさの前に、何も感じないほどリリも人に無頓着ではないのだった。

葉の揺れるのを眺めるように一箇所に焦点をあわせて、ぼんやり外をみていたリリは、立ち上がった。

「ナディン、さっそく出発しましょうよ。
ここでグジグジしてたんじゃ、せっかくの旅の機会に機嫌をそこねちゃいそうになるわ。
デイも納得しているのだし、堂々と出て行きましょうよ」

といって、クローゼットやタンスをいっせいに開けていった。
あっという間に、ベッドや壁に服が敷き詰められていき、旅が長旅になることをあらわしていた。
リリの好みでそろえられたクローゼットのたくさんの衣装たちに囲まれて、窓から吹く風の中、
彼女は、決して言葉にしないであろう、デイへの想いを整理しているようだった。

ナディンは、彼女が彼女なりにこの旅のことを考えている先に、口にしないデイへの想いがあることを見て感じた。

傍目には何も感じないように、衣装選びをしているふうに見て取れるが、長い付き合いでリリのことを理解しているナディンには、彼女がいま複雑な一抹の迷いを払拭するように、色とりどりの衣装たちの中で一心に心を調律しようとしていることが伺えた。

彼女にとっても、今回の旅は、初めてのことなのだ。

泣いていても、愚痴をいっていても、リリにとってデイの存在はいままで大きかった。
その彼と離れるというのは、運命の相手を探す旅といえども、彼女にとっては、古巣を離れるような、離れがたい気持ちがないはずがなかった。

ナディンは思った。
運命の相手を探すたびといっても、どこに行き、何を手がかりにすれば、リリの気持ちは落ち着くのだろう。
二週間もの間、女二人でどうやって過ごしたらいいのだろうか。
遠い街まで車を走らせ、いつもと違う景色を見せたらリリの気持ちは落ち着くだろうか。
いや、そんな簡単な女性ではない。

彼女も、この家や日々の環境から抜け出したいという想いから、このようなことになったが、
どこへ行って、何をすれば、自分の腹が満足に落ち着くのかというところまでは、計算していないはずだ。
ただ、この家を出て、どこかへ行きたい。
それが、当面の大きな目標であったのではないだろうか。

リリの衣装選びが終わったようだった。
帽子や、傘、バックなど小物にいたるまで、気に入っているものをスーツケースに入れていた。
いったい、どれくらいの旅になるのだろうかというほど、ケースが三つもあった。
彼女自身も、おしゃれなワンピースに着替えをし、首飾りには三連ものネックレスがしてあった。
こちらに振り向いた顔に紅をひいた唇が、印象的だった。
目は、キラキラして、何の曇りもなかった。
一抹の土産は、クローゼットのどこかへしまわれたようだった。
輝いていた目と紅が伸ばして、リリはニコッと笑った。


「ナディン、すぐ出発しましょう」


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