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名文抽出 - 『変身』 (カフカ) -

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ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。


( 毒虫、の原語は Ungeziefer. 直訳は、「生け贄にできない不浄な動物」。ともあれここで重要なのは何の虫になったかではなく、人間からほど遠い存在になったということだ。 )

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汽車の時間をとうに過ぎても仕事へと向かわないグレゴールの元に、彼が務める会社の支配人がやってくる。グレゴールの母は、なぜグレゴールが部屋から出てこないかを知らないものの、必死にグレゴールをかばう。

「あの子は身体の具合がよくないんです。ほんとうなんです、支配人さん。そうでなければどうしてグレゴールが汽車に乗り遅れたりするでしょう!」


( 子をかばう母の、極めて平凡な愛情が見て取れる一文。けれども章が進むにつれて、この愛情は失われていく。 )

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家族に姿を見られ、自室へと追いやられたグレゴール。ドアの隙間から居間を覗いて見るが、いつも聞こえてくるような家族の声は聞こえない。

「家族はなんと静かな生活を送っているんだろう」と、グレゴールは自分に言い聞かせ、暗闇の中をじっと見つめながら、自分が両親と妹にこんなりっぱな住居でこんな生活をさせることができることに大きな誇りを覚えた。


( 毒虫になってしまっても、グレゴールは人間としての感情や尊厳を持っている。それを失い始めるのは、彼が変わりゆくからではなく、彼を取り巻く環境が変化してゆくからだ。 )

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毒虫となったグレゴールへ妹は食事を運ぶ。変身前のグレゴールが好きだったミルクを全然飲まなかったことを不思議に思った妹は、様々な食物をグレゴールの元へ運んでいく。

彼の嗜好をためすため、いろいろなものを運んできて、それを全部、古い新聞紙の上に拡げたのだった。...思いやりから急いで部屋を出て行き、さらに鍵さえかけてしまった。それというのも、好きなように気楽にして食べていいのだ、とグレゴールに分からせるためなのだ。


( 世話をするだけなら、餌と水だけでも与えておけば自分の責務は果たしたと言えただろう。そうする以上のことを行う妹の姿からは、義務感ではない、もっと美しい感情を見て取れる。 )

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一家の家計を支えていたグレゴールの変身により、家族にはグレゴールの世話と生活費の問題が重くのしかかる。グレゴール以外は務めをもっていなかった家族だが、父も母も、17歳の妹までもが働きに出るようになる。

世間が貧しい人々から要求しているものを、家族の者たちは極限までやり尽くした。父親はつまらぬ銀行員たちに朝食をもって行ってやるし、母親は見知らぬ人たちの下着のために身を犠牲にしているし、妹はお客たちの命令のままに売台の後ろであちこちかけまわっている。


( グレゴールのおかげでそれほどの不自由もなく暮らしていた家族。グレゴールの不在により底辺生活へと落ちた家族。悲しさを覚えると同時に、人の強さを感じるのは私だけだろうか。 )

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グレゴールの世話をしていた妹だったが、グレゴールへの接し方がだんだんと変化してゆく。

部屋の掃除は、今ではいつも妹が夕方にやるのだが、もうこれ以上は早く済ませられないというほど粗末にやるのだ。汚れたすじが四方の壁に沿って引かれてあるし、そこかしこにはごみと汚れものとのかたまりが横たわっている始末だ。


( 家族愛は失われ、もはや残ったのは義務感だけだ。自らが進んで買った兄の世話だったが、今交代を提案されたならば、喜んで受けたことだろう。 )

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家族は生活苦から、自宅に下宿人を取ることにした。
ある夜、妹が下宿人の前でバイオリンの演奏を披露する。その拙さに下宿人は飽き飽きし始めるが、ただ一人、その音楽に感動しているモノがいた。


妹はとても美しく輝いていた。彼女の顔は少しわきに傾けられており、視線は調べるように、また悲しげに楽譜の行を追っている。グレゴールはさらに少しばかり前へはい出し、頭を床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうとした。音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。



( 音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。しかし、動物なのだ。何故ならば、彼は動物として扱われたからだ。 )

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下宿人に手厚く奉仕していた家族だったが、グレゴールの存在がばれたことから下宿人に賃料不払いの上退去することを通告される。
あらゆる苦難が重なった末、妹はついにグレゴールとの決別を宣言する。

「もうこれまでだわ。あなた方はおそらくわからないでしょうが、わたしにはわかります。こんな怪物の前で兄さんの名前なんかいいたくはないわ。わたしたちはこいつから離れようとしなければならない、とだけいうわ。こいつの世話をし、我慢するために、人間としてできるだけのことをやろうとしてきたじゃないの。だれだって少しでもわたしたちを非難することはできないと思うわ」


( はじめ、妹は毒虫を兄だと認識して尽くしていた。けれどもここに至って、毒虫は怪物となり、兄と関係のないものとして認識される。家族愛といえど、一方的に与えるだけの関係の中に芽生える光は無いのかもしれない。 )

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家族の拒絶を受け取ったグレゴールは、孤独に考える。

自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。


( 何年もの間家族に尽くしてきたグレゴール。毒虫になってわずか数ヶ月で、家族から死を願われるようになったグレゴール。それでもグレゴールにとって家族は、妹は、守りたい存在であり続けた。 )

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