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差別の無い所に個性は生まれないという話

多様性の彼岸

 昔、私が国語の教員をしていた頃、教育現場では声高に「多様性」というテーマが謳われていた。子どもの個性を尊重し、一人一人の価値を認めようという教育方針だ。私は今はもう教育現場には立っていないが、きっと今もなおこのテーマは彼らにとって金看板であることだろう。

 しかし今こうして考えてみれば、多様性を認めよう、というのはどうにも不思議な響きを持つ言葉だ。

 この言葉には人間的な魅力がある。旧世代からの遺産である画一的云々との決別を計り、各個に対して個別の認識の眼差しを向けようとするこの試みは、優れたものだ。学力の低い子どもも、運動の出来ない子どもも、多様性という概念に包んでしまえば、そこには何らの問題も生じなくなる。それも個性だと、大義名分を背負って声を大にして言い放つことが出来る。

 けれども多様性という言葉は、もっと大きな力を持っている。言わばそれは、マイナスをゼロにする力であって、同時に、プラスをゼロにする力だ

 勉強の出来ない子を多様性という毛布で包んだ時、彼らの否定的な自己認識は払拭されるだろう。ではこの時、勉強の出来る子のことは何で包んでやればいいのだろうか。彼らの肯定的な自己認識はどこへいくのだろうか

 前者の子供達に対して私たちがかけてやれる言葉は、「勉強が出来なくても良いのだよ」と絶対的な基準に依るものになるだろう。
 しかしその論理を保持するのであれば、後者の、勉強が出来る子どもたちにかけてやれる言葉は「勉強が出来て凄いね」というやはり絶対的な言葉でしかない。
 ここでは、「成績が一番で凄いね」などという評価は許されない。何故なら、それは相対的な評価であるからだ。それは、勉強が出来ない子どもに対する「勉強が出来ない」という烙印を生産する言葉であるからだ。

 ここに於いて子どもたちは、「何かが出来る」という一つの基準で以って評価されることになる。例えばラケットを持ってボールを打つことができればそれはもう「テニスが出来る」と言えることになるが、全国大会で一位になったとしてもそれは「テニスが出来る」という一事に強制的に収束させられる。何故なら、多様性が全ての個性を庇護しようとする限り、多様性が何らかの個性を傷つけることは許されないからだ

 こうして考えてみると、多様性というのは一筋縄ではいかない観念である。個性を庇護するという宿命故に、個性の伸長を諦めている節がある。

 実際にはこの看板はもっと柔軟に運用されているだろう。運動の出来ないA君にはそれでいいんだよと絶対的な基準での個性涵養を計り、運動の出来る子には誰よりも強くなれと相対的な基準での個性涵養を計るに違いない。

 実際に多様性がどう扱われているかは、まあ良いのだ。
 ここでテーマにしたいのは、多様性に干渉されている個性の方なのだ。
 随分、前置きが長くなってしまった。

シュレディンガーの個性

 個性とは何だろうか。
 字義を辿れば、個の性質である。個性の説明としては過不足無いように思える。

 しかし、一度立ち止まって考えてみたい。本当に、個性とは個の性質のことだろうか
 換言するならば、個性とは、果たして個の力によってのみ涵養される性質なのだろうか

 例えば「読書家」と呼ばれる一人の男性、Aさんが居たとしよう。彼は休日はもちろん、仕事の休憩中も、就寝前にも必ず何かしらの本を読んでいるらしい。
 そんな彼に「読書家」という個性をラベルするのは異論の無いところだろう。しかしここで考えてみよう。私たちは何を以って彼の個性を「読書家」であると断定したのだろうか。

 無論、多くの本を読んでいるという性質から私たちはその断定に至っている。では月に一冊の本を読むBさんは読書家か?いやBさんは読書家では無い。何故か。読んでいる本の量が少ないからだ。Aさんは多いのか?多いだろう。では多読の基準は明確に存在していて、Aさんはそれを超過したから「読書家」である、ということか?いや、そんな基準は無いだろう。では何故、Aさんは「読書家」なのか?それは、Aさんが他の人よりも本を読んでいるだろうことが明らかだからだ。

 Aさんは、他の人よりも本を読んでいるという一事を以って、「読書家」という個性を付与された。肝心なのは、他の人よりも、という点だ。つまりAさんの個性は、「本を読まないAさん以外の存在」を前提にして、初めて認められる個性であるのだ。

 ここから何が言えるかというと、個性とはそれ単体で存在するかのように見えて、その実、必ず他者存在を必要とするということだ。あたかも箱を開けるまで生死を確認できない猫のように、個性もまた、その人を観察する他者が居なければその個性の存在を確認できないような代物であるのだ。

 こうして整理してみると、個性とは極めて相対的な性質を持つ観念を持つモノであることがわかる。
 ここで今一度多様性のことを思い出してみると、絶対基準の信奉者である多様性と相対基準の申し子たる個性の、水と油のような相性の悪さに思わず笑ってしまう。その生存に他者を必要とする個性を、培養しようとして他者存在を否定する多様性の二者関係は、あたかも火を消さないように密閉空間に火を置かんとする阿呆のようである。

 さて話を進めよう。個性が他者存在を前提とするということはつまり、人間同士の差異の存在を認め、かつ優れた差異を礼賛するということに他ならない。

 では差異の一端を礼賛した時、その逆の一端に対して私たちはどのような感情を持つだろうか。想像に難くない。侮蔑である。

差別の此岸

 ここで差別ということを考えてみよう。例によって字義を辿れば、能動的に読んで見れば「差によって別ける」、あるいは受動的にとって「差によって別れる」と読むことができる。このように言葉単体にはポジティブな意味もネガティブな意味も込められてはいないが、現代用法においては、ネガティブな意味で以って使用されることが多いように見受けられる。

 「差」を前提にするという共通点において、「個性」と「差別」はあたかも双子の兄弟のようである。差異があるからこそ個性は成立するし、差異があるから(純粋な意味での)差別が生まれる。

 しかし双子のようでありながら、今の社会にあっては、むしろこの2つの概念は双極に位置する観念であるかのように扱われている。
 つまり、望ましい差異に対して我々は個性と名付けるし、望ましくない差異を私たちは差別の対象として扱う

 例えば年収についての統計の話を考えてみよう。仮に中央値が400万だとして、一方の端には2000万が、もう一方の端には100万のラベルが貼ってあるとする。
 この図を前にして私たちは、2000万に属する人のことを「お金持ち」と呼ぶ。それはそう呼称される人たちの個性と言って差し支えないだろう。私たちはその個性を羨望し、賞賛する。
 では逆の100万に属する人のことは何というか。「貧乏人」だろう。これらの人の性質を、往往にして私たちは個性とは呼ばない。しかし差異としては認める。この差異を私たちは嫌悪し、いわゆる、差別の対象とする。

 差別は良くない、と私たちは一顧だにせず口にする。私たちはその存在を根絶しようとし、社会もその背を強く押し出している。

 しかし個性というものを考えた今、ただ馬鹿のように口を大きく開けて差別を真っ向から否定することに抵抗を覚えないだろうか。

 個性と差別は差異という親から生まれた双子である。この双子は互いが互いの存在を必要しながら生きている。もし差別をのみ殺害した時、果たして双子の片割れは生きていけるだろうか?

差別の無いところに個性は生まれない

 差異とは、他者と異なる部分のことである。一つの性質の多寡、あるいは大小についての正規分布があるとしたら、差異として認められるのは、その一端の部分である。

 個性もまた、他者と異なる部分について付与されるものであり、他者から認識される肯定的な観念である。

 差別もまた、他者と異なる部分に対して向けられる感情であり、他者から認識される否定的な観念である。

 ではこの正規分布において、極端に付与するラベルを別つものは何であろうか。個性と差別の対象とを別つものは何だろうか。それは社会道徳である。

 資本主義社会にあっては、お金を持つことが望ましいという道徳が存在するからこそ、お金持ちは個性足り、貧乏人は差別の対象足る。
 学校社会にあっては、勉強ができる子どもが望ましいという道徳が存在するからこそ、優等な子の優等さは個性足り、読み書きの出来ない子は差別の対象足る。

 金銭の多寡も、学力の大小も、その是非を別つのは道徳である。わかたれなければ、それらの本質は同じ差異である。このラベルは道徳が変われば逆転もしよう。清貧を美徳と道徳が認めていた時代にあっては、貧困は差別の対象足り得なかった。その時においては貧困は個性であった。


 私たちは多様性を謳って個性の涵養を目指している。一方で、差別を根絶しようと血眼になっていじめっ子を探している

 その両立が出来たら、どれほど良いだろうか。だが、それは無理な話だ。個性を肯定するということは差異を肯定することであり、差異を肯定するということは差別を肯定するということだから。逆に言えば、差別を否定するということは差異を否定するということであり、差異を否定するということは個性を否定することであるから

 したがって、差別の無いところに個性は生じないと言うことができる。


 現代は今、自己表現の時代を迎えている。Twitter にしろ、 Instagram にしろ、この note にしろ、それは自己の表現を行う場として提供されており、換言すればそれは個性を発露させる場として提供されている。

 つまり、現代は社会単位で個性を追い求める時代である。他者との差異を得て、自らの存在を主張し、自己愛を、あるいは他者評価を獲得することこそを、各人が目指している。

 そんな中にあって、差別を否定することなどもう出来ない。共依存の双子である個性と差別の一方だけを誅殺するなどという神業めいたことは、もう出来ないのだ


七色メガネ

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