価値観を受け入れるということ、及び受け入れないということ
個性と価値観
僕らが後ろ指を指され、君たちには個性が無いと言われるようになって、もう久しい気がする。
みんなと同じ学校に通い、先人の轍を踏むことを教わり、実践し、整列しながら社会に歩み出した僕らは、特にその批判に反論する術を持っていない。僕らはみんな、似た者同士の雑草だ。
けれども不思議なことに、僕は僕の価値観というものだけは、自分の支配下においている自信がある。これは好きで、これは嫌いだと判断する力を持っている。
そしてこれは、おそらく僕だけのことではないだろう。
全ての生きる人は、好きなこと、嫌いなことを判断し、あるときは逃げ、あるときは立ち向かうことと思う。
個性とは、他人と自分を分け隔てるためのものだと僕は思っている。君と僕との違い、それが個性だ。
対して価値観は、僕が僕である以上捨て去れない何かだ。君の存在、非存在に関わりなく、常にそれは僕の内に在り、それは僕により涵養され続ける。
個性と価値観は相対と絶対の概念に似ているような気がする。二つは並存しているのが美しい。
けれども今僕らは(少なくとも僕は)個性の希薄化を強く感じる。
それに伴って、絶対の象徴であった価値観が、相対的に領域を拡大してきたように思う。
個性よりも、価値観を大事にしたくなってきたのだ。
価値観を受け入れるということ、及び受け入れないということ
価値観は絶対的なものだから、人と似ていることもあれば似ていないことも在るだろう。其れは個性とは大きく異なる点だ。個性は類似性を持った時点で個性たり得ない。けれども価値観は、たとえ相似であってもその存在に何ら支障を及ぼさない。
ただ、問題もある。他者の個性は純粋に賞賛できる。讃えることで何も僕に害はない。けれども価値観を受け入れるということはおいそれと出来ない。相手の価値観を受けれいるということは、自分の価値観が座る席を、相手にいくらか譲るということになりかねないからだ。
「あなたの考えって素敵だと思う」
こう述べる僕は、果たしてこう述べるとき、相手の価値観にどう向き合っているのだろうか。
少なくとも肯定はしている。否定はしていない。けれども受容しているかは分からない。あなたのようになりたいとは言っていないし、なりたくないとも言っていない。
相手の価値観に触れ、自分の価値観が変容したとき、僕は昨日の僕から離れて明日の僕に近づく。これは進化だろうか。
自分の価値観を本当に大事にしたいなら、相手の価値観なんて受け入れるべきではないと思う。明日の僕になるということは昨日の僕に決別するということだ。
受け入れるにしても拒否するにしても、価値観とはとても扱いづらい。
だからもし本当に受け入れたい価値観に触れたら、尊重したい価値観に出会ったら、向き合い方は大事にしたい。
次は後悔しないように。
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