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ハートにばんそうこうを貼りながら口ずさむ歌について

こんばんは。いかがお過ごしでしょうか。
深夜のラジオ感覚でゆらゆら綴って参ります。

突然ですが私は好きな人の傷を治療するのがとても好きです。
トゲの刺さった指からトゲを抜いたり、擦り傷を消毒して正確なサイズの絆創膏を選んで貼ったり。より良いグッズを揃え、最高のお薬のためにドラッグストアを転々とするのも好き。しまいには自分は使ってない恋人のコンタクトの保存液をチェックしてこっそり買い足したりしている。

誰かの健康を守ることは、最大限の愛だと思う。
それを受け入れてもらうことは、私の愛を受け取ってもらえるってこと!
少なくとも私にとってはそんな気持ちで絆創膏をぐるぐる巻いている。

心に小さな傷がある人は、たまにおいでね。絆創膏貼るからね。

これ以上無理というほど泣いた夜、突然電話が鳴った。エリィからだった。泣きはらした後の私は鼻が詰まって、喉の奥もヒリヒリしていて声がうまく出せない。詰まらせながら、なんとか平静を装うも次にはすぐ鼻の奥がツンと痛む−『相性』

ラブリーキュートなチビドッグとデカドッグがスヤスヤ寝ているのを前に、原稿が終わって一息ついた私がいる。

最近の私はよく歌を歌う。
朝見ているドラマの主題歌や、流行りの洋楽や、よくわからない創作した歌(主にお犬たちを抱きしめながら歌っている)、いろいろな歌を口ずさむ。歌詞がわからなくても思うように歌っている。わからなければ作ればいい!マリー・アントワネットにさえ傲慢だと眉をひそめられそうな勢いで歌っている。

決して上手くはないけれど、楽しいとつい歌ってしまう。
だからきっと私は最近楽しいんだと思う。

苦手だった食器洗いも、出した洗剤が偶然シャボン玉になるだけで嬉しくなる。気になる歌を口ずさめはあっという間に終わる。

ここにもいくつか羅列したように、小さい幸せが増えた。見つけるたびにせっせと採集し、丁寧に箱に入れてラベルを貼り、よく見えるところに飾る。そのうち好きなものをなんども反芻して、ますます楽しいと思ったりする。

楽しいことが増えたことにはっきりとしたきっかけはなかった。ある日長袖だと暑いなと思う日が訪れるように、ある日なんだかやけに楽しいなと思ったりする。今日は少し冷えるなと思うように、今日は少しブルーだなと思ったりする。もちろん悲しくて寂しい日だって同じように訪れる。

今日はね、絆創膏をたくさん持っているから、少し悲しい日のことも話そうと思っている。その前に持っている絆創膏の柄を紹介するから選んでおいて。ミッキーマウス柄、アルファベット柄、ヤシの木柄、無地、だよ。

私が悲しい時にする3つのこと

誰にだって悲しいことは起きる。とてつもなく巨大な悲しみにすっぽり飲み込まれる日もあるし、小さいイガイガみたいな悲しみが体中にチクチクくっついてくる日もある。それでもその悲しみとは共存して、当たり前のまいにちを送らないといけない。だって働いたり、学校に行ったりするんだもの。人間、忙しいな。

個人的には、あまりに大きな悲しみがやってきたら、学校や仕事は休みなねって思う。でもそのあたりのスタンスって人それぞれだし、今回は悲しみから少し遠ざかる方法を話そうかな。

・悲しみを共有しない
・すごく好きなものを見る
・悲しみを掘り下げる

悲しみを共有しないことって、なんだか悲しみから遠ざかることと真逆な気がする。けど個人的にはすごく大切にしていること。

悲しい時に悲しいことを人に話すと、なんだかそれがあまりに仰々しくて、とってもひどいことが自分に降りかかったような気がして、余計に傷ついたりする。言葉にすることで現実味を帯びた悲しみがまた襲ってくる。おまけに、相手が必ずしも悲しみから救い出してくれる方法を知っているかなんてわからないから。だから私は悲しみに飲み込まれているうちは人に共有しない。それが“問題”として目の前に立ちはだかった時に、解決するためのシェアはするようにしている。“悲しみ”と“問題”はまた別だと思う。

気分転換はとっても大切!あんなに悲しかったのに、大好きな本の表紙を眺めていたら元気が出てきたりする。私は誰かが勉強している画像、女の人が本を読んでいる画像、鳥の卵の画像、素敵なドレスの画像が好き。Pinterestで探して、延々と眺めている。気づいたら次にやりたいことが生まれて、自然と前に進めていたりする。悲しみからは遠ざかるのがいちばん。

最後はちょっと難しいけど、悲しみを掘り下げること。頭が冴えていて、体力があったら試してみてほしい。思わぬ価値観と出会えるかもしれない。なんで悲しいのか、その悲しみには相手がいることなのか、悲しみから学びや意味を感じられたか、悲しいことの論点はなんなのか。たくさんの問いかけがあると思う。例えば私は、よく自分が「正しかったか」どうかで悲しむ。でも私が絶対に正しいことなんてこの世にないし、同じように絶対に間違っていることもないのだ。それでも悩んでしまうから、色んな人の立場を想像してどれくらいの割合で正しかったのか考える。

客観的に見ればマジョリティの意見かも、正しいけど思いやりに欠けたかも、そもそも間違っているのに意地を張っていたと思う、大失態だった穴に入りたい。正直ケースバイケースで色々見つかる。それと同時に、自分がどういう時に悲しみに飛び込みがちなのかが見えてきたりする。頭が整理されれば残るのは“悲しみの残骸”と“問題”だ。問題は解決すればいいし、悲しみの残骸は眠ったり本を読んで少し遠くに追いやっておけばいい。すごく傷ついた後に、突然元気になるのは難しい。悲しみの残骸はどうしても生まれる。それでも、悲しみの中身がなんなのかがわかれば、付き合い方も見えてくる。苦しむだけじゃなくて、そこから抜け出せるチャンスがあるかもしれない。

私はいつもこうやって悲しみと暮らしている。どうしたって悲しみは私の人生に訪れるし、みんなの人生にもきっと訪れる。いない人は、ラッキーと思って今を楽しんで。悲しみがきたばかりでボロボロだよって人は、絆創膏貼ってあげる。あとあったかいお風呂入りなね。心配しないで大丈夫。ずっと悲しいことなんてない。いつかは悲しみは“問題”や“課題”になって前に進める形へと変容する。その時がくるのが、長いか短いかくらいしか違いはないと思っている。だから思いつめないで。

そんな気持ちで今日は悲しみのことを書いてみました。

そういえば絆創膏の柄、決まった?

nana

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