全員で生き残ろう。
ついに、私が住む自治体でも、保育園休園のアナウンスがあった。
というわけで私は仕事ができなくなる。
「在宅の仕事なら子供見ながらできるでしょう」
と、まるで子育てを舐めきった言葉は、まさに出産前の私の意見だ。ほんの2年半前の自分を、助走をつけてはっ倒したい。
子供を世話しながら片手で仕事とか無理。絶対無理。私は私に謝れ。
子育てを、そして私の遺伝子をまるっと継ぐであろうまだ見ぬ女帝を、いったいなんだと思っていたのだろう。作家のくせに想像力がとぼしすぎて虚しいほど。
仕事ができるタイプの勤勉な親も、仕事をさせてくれるタイプの聞き分けの良い子供もいると思うけど、不真面目な私と、主張の強すぎる娘の場合、不可能だった。
抱えた仕事がキャパオーバーし、保育園の時間内にはとうてい終わらず、平日の夜も週末も、ずっと執筆をしていたので、娘は構ってもらえずイライラ、私も邪魔され続けてイライラの悪循環に陥っていた。仕事も子育ても、どちらも中途半端だ。
全国駆け巡る営業マンの夫をとっ捕まえて、家事育児全てを押し付けるという、ろくでもない事態だった。うちのとーさんはすごい。
とはいえ、家族全員でこのままでは心身がまずいことになると感じていたので、取り返しがつかないことになる前に働き方を見直すべきだと考えていた。
「保育園預けている時間以外で仕事をするのはやめよう」と決意していた矢先、突如始まったコロナの世界。
ああ、仕事ができなくなる。
誰のせいでもないけど(というかコロナのせいで)、指の間からするすると何かがこぼれ落ちていく。悲しみを伴う恐怖だ。
「こういう状況なんだから仕事はしばらく休んで、子供との時間を大切に」という考え方もあるけど、フリーランスの執筆業というのはその考え方にあてはまらない。
「仕事はしばらく休む=社会的な、精神的な、肉体的な死」を表す。大げさではなくて。
我が家は2馬力だけど、その8割方は父馬が担っているので、肉体的には死なずに済みそうだ。世界中の人々、平等に命の危機が差し迫ったこの状況だ。肉体が生きていれば社会的、精神的な死なんてどんとこいである(いや、来ないでほしいけど)
ちにみに、保育園休園には、こんな条件がついている。
臨時休園中は、保護者がともに医療、介護、警察、消防、ライフライン業務など市民の生命、安全の確保に関する業務、また食料品、医薬品販売など社会生活の維持に関する業務に従事している場合、家庭での保育が特に困難な場合に限定して、特例的に保育を実施いたします。
そう。私はこれが気がかりで、お医者さんや看護師さんのおうちの子供はどうなるんだろうと心配していたから、こういうことなら安心。
(※保護者がともにっていうのが気になる。え?片方じゃダメなの?主旨を満たさなくない?)
私は、いったん引き下がり、子供を預ける順位の下位の下位から、命がけでコロナと闘う最前線のヒーローたちを、スタンディングオベーションで送り出す決意をとっくにしている。
ただ、1つだけ言わせて。
芸術は、エンターテインメントは、
すべての小説、詩歌、漫画、戯曲、哲学、天文学、演劇、舞踊、映画、音楽、絵画、彫刻、建造物、花や木々も、
しばしば、人の命を救ってきた。
医療や衣食住や物流ほどではないけれど、芸術や娯楽も、れっきとしたライフラインだと思う。
不要不急の最前線で矢面に立つ舞台や音楽だけど、労働によって奪われかけた命を、いくつも救ってきたのではないだろうか。これをライフラインと言わず、なんて呼ぶの。
でも、「娯楽は生命線だ!子供を保育園に預けさせろ!」なんてことは微塵も思いません。だって「死んだら元も子もない」。もはやこれ以外の言葉が見つからない。
だから、私たちは生きる。
ここにいる全員で。生き残ろう。
そして“ビフォーコロナからアフターコロナ”の世界に変わった瞬間の、証人になろう。
生きて、勝利の歌を歌い、称え合おう。
だから、さくせんはひとつ。いのちだいじに。
幸い、私には「子守するよ」と声をかけてくれる友人や親族がいる。大いに甘えよう。肉体だけでなく、社会的にも精神的にも死ぬもんか。
今こそ、円陣を組むとき。
(ただし、6フィート離れること)
おまけ
白衣と防護服のヒーローにサラダが届きますように。寄付しました。
小さいことだけど、私はおいしいサラダを食べるとすごく元気になるから。
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