「自分」という幻想
過去の記憶の蓄積が自分なのか。
トラウマや成功体験で今の自分が形成されているという捉え方をしてしまう。
自分とは執着が生み出した世界の一部なだけでそこにこだわり止まっているからそれが「自分」だと思い込み、苦しんでいるのかもしれない。
音楽を聞いたり映画を見たりして遠くの風景や別世界、身の回りとは別空間に意識が没入することがある。
健康な人の身体という枠組みの中の空気は常に入れ替わり、水は淀みなく流れている。
怒り憎しみを持つとその身体という部屋の窓を全部閉め切って悪い空気を滞留させてしまう。
川の流れは止まり腐り出す。
空気が死んで水が腐る。
意識を自分とするなら意識は空間に溶け込む。
音楽にも入り込む。
体を自分とするなら減ったり増えたりするからその原因になる食べ物も自分。
それを育てる畑も自分。
自分とは体の外にもあるし、別の空間にもある。
過去だけではなく未来にもいるし、時間は関係しない。
そして自分というものは存在しない。
余計な執着が自分を生み出し小さい檻に閉じ込め苦しみを生み出してる気がする。
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