見出し画像

何をもってして《占い師》なのか


私はカード達とのお喋りが好きだ。

『物と会話なんて気持ち悪い』

という人は根本、私といると苛々すると思う。
たぶん、私のnoteの記事も読めないもの、読みたくないものが出てくるんじゃないかな。

そういう人は、そうだなぁ。
写真記事とかおすすめ。マガジンにしてあるよ。


さて、変な人、不思議な事好きな人、感覚の人、星の子達の人は続きを読んで『今日もkoedananafusiだなぁー』ってしていってくれたらいいなぁ。


カード達が教えてくれる。
大いなる流れがそこにある。


私には大層な力はない。
よく視える目もないし
よく聴こえる耳もない。
ただ感覚がある。

大いなる流れがあって、そのなかで人間はゴチャゴチャ思考しがちで、私はその思考が趣味ってだけなんだと個人的には思っている。

だから、それは名前のついた何かでは無いと思ってる。

とりあえず、私は様々な存在を肯定でも否定でもないよってこと。

在るものは在るんだもの。
無いものは無いよ。

ここまではただの前置きね。
(というか雑談かな)


カードを混ぜる。
カードを引く。
カードを並べる。
カードを開く。
カードを読む。

誰でも出来る。
誰でも。
本当に。そう。
タロットカードさえあれば。

最後の「読む」は、少し勉強が必要だけど、やろうと思えば誰でも出来る。


では、《占い師》とは何をもってして《占い師》なのだろう。

私が占わせてもらった人はそんなに多くない。
大抵の人は喜んでくれるけど、心に防御壁がある人には届きにくいし、伝えにくい。

私の言葉は確かに強めだ。
言葉遣いじゃなくて、それに乗るものが。
でも、だからこそ相手側からの拒絶もあるし、のめり込みもある。‥と外から見て思う。

基本、読むのに相手からは対価を貰わないから「見させて《もらってる》」って私が対価を払う側に立つ事でバランスをとっている。たまに力を使いすぎるけど、別に大きく欠損させてないからいいかな。
その辺はね、怖がりで臆病者の弱者のほうがいいと思ってる。なまじ、力があると無理できちゃうから。

対価をくれる人の気持ちは有り難いから、バランスをみて、多すぎるときは「もらって《あげる》」にしておく。
言葉の上で、そうしておけば、バランスなんて案外とれるもの。


形をあげるって大事な時あるよ。
形に囚われるのはあんまりだけど。
形がなさ過ぎると覚悟も決まらないよ。
その辺のバランスの見極めが…そうだね。
難しいかも。占い。


心の底では本当に感謝している。
カードにも、読ませてくれた人にも。
だって、少なからず流れを読まれるのって
扉をあけて招くようなものだから。
力を借りて読んでるから。
私の力なんてたかが知れてるもの。

私は招いてもらった所にとって良い事があるといいなって思うよ。
広い世界にとってどうかより、その人の世界にとってどうかのほうが私にとって重要。


私の占いはそういうもの。

友達に度々「占い師やったらいいのに」「お店開きなよ」と言われるが、私は何時も悩む。

何をもってして《占い師》なのだろうかと。

私は師をもたない。
タロットカードを手にしたのだって、好奇心だ。あと、私は占えるってなんとなく思っただけ。

私のカード読みはたぶん、他の人達と少し違う。
絵柄読みがはいってくるから。

対面占いは苦手だと思う。
カードに触られるとカード達の気が散るし、物語も浮かばない。
でも、カードを相手に見せないのは嘘をいくらでもつける事になるから、私は写真を送るようにしている。

見てもらって気になる子の話はなるべくしたいと思う。だって、カード達はいつも同じ顔してるわけじゃないんだもの。

今やオンラインの時代。
言葉だけの鑑定なんてゴマンとある。

自分もたまーには、他人に見てもらいたくなるから調べるけど、電話鑑定の金額の高さに辟易する。
まぁ、電話は声で、通話料もかかるし、その場で読むのは精神使うから、高くなるのはわかるけど……それにしても高いよね。

それに、タロットカード占いと言っておきながら、名前や生年月日も聞いてくる。
そりゃ、補足情報はあったほうが読みやすいよね。全く知らない相手だもん。
生年月日が解れば、様々な角度からその人の大まかな性質が知れるし、それを元にカードが教えてくれることを読んだほうが安定するもの。

でも
だからこそ、似たり寄ったりな鑑定結果になりがちだったりもするよね。
占う物や、占う側によるけど。

私、名前や生年月日をきかないで占いたい。
でも、実際オンラインで知らない人を鑑定するってなったら生年月日くらいは、やっぱり欲しいかなって思う。対価をもらって安定しない答えじゃね……。

私はさ、何時もハッとするような言葉との出会いを求めてるんだ。
だけど、私…割と順応が速いんだよね、たぶん。
言葉の飲み込みが速い。
噛み砕いて飲み干すの得意なんだと思う。
すぐに骨組みを見ちゃうんだと思う。
だから。
ハッとしない。

それに。
私の防御壁は、私達が自動で変換してくれるんだもん。(…これはまた別の話だね。)

 

何をもってして《占い師》なんだろう。

私、何かについてハッキリきくのも好きじゃない。
質問を決めない。
ただその人が『何か知りたいみたい』だから教えてとか、私がその人に何か『言葉を贈りたい』から教えてとか、そういうものだもの。

お仕事向きじゃないよね…。


でも。
私の言葉は私の世界だから、届く人、響く人には染み込んでいくの。
それは、私は大層なものではないから、そう言うと偉そうで何かなぁって思うけど、どうも客観的にそうらしいなって…思う。


…私は《占い師》になりたいのかな?

私の言葉に惹かれてやって来る人には、言葉を贈りたくなるし、
これは感覚だけど、お隣さんというか…おなじ感じの人には勝手に言葉が紡がれる。スルスルと生まれていくの。

はたして
《仕事》にして言葉は生まれるのかな。

そりゃ、何時もカードと対話してると楽しいし、一人で世界を繋げている時もとても楽しい。
誰かの何かになれば尚嬉しい。
(何にならなくてもいいとも思ってる。)

でも、集会みたいなのには何故だか参加したくないし、色々なものについて語られているのを見ると違和感があるし………

あーあ。森の中に小さな小屋でも建てて、ひっそり訪れる人だけみれたらいいのに。

どうしたって、腰が重たいわけ。

そもそも《占い師》って名前が私に似合わない気がする。
でも、説明する時に何か形がないと、そもそもの取っ掛かりもないよね。
私…わかってきた。そういうのが苦手なんだ。
取っ掛かりを作るためのビジネスモデルな方法とか、心理学とか……
なんかそういうのじゃないよ。
もっと当たり前の
大いなる流れを
少し見えやすくしただけで
本当は何時もそばにあるのに…って思う。

忘れてるだけだよ。
思い出して。
って、言いたいだけなのかもしれない。

カードには沢山の世界を読んで遊んでほしい。
そしてその中で、誰かの何かになればいいと思うの。

でも、それを《占い師》です。占います。どうぞ、どうぞ!!ってするのは何か違くて。

けど、
沢山の他人を見たいのは本当。
なぜなら私は観測者で発信者だから。

んーむむむむ。

なんの話だ。
まとまんなくなってきたな。

とりあえず。
noteのフォロワーさんなら
今のところ
誰でも見ますので
見せてやってもいいぜ~って人は気軽に声かけてね。
ゆっくりだけど、かならず読みます。だいぶ…ゆっくりだけど…。

私の読む世界なんてふわふわとしたものだから、お金払って見てもらう前の予行練習にはもってこいだと思う。
対価を払うのも、なんだかんだ勇気いるしね。

いつかは……
対価をもらってもみれるかな。

まだしばらくは
修行というか、ふんわり
よんでたいたいよね。

結局、やっぱり、惰性の悪魔とは踊り続けるkoedananafusi。


月夜もあれば、輝く太陽もある。
崩壊もあれば、救いもある。
何時だって巡るもの。

そうして世界の輪は完成していくよ。

サポート設定出来てるのかしら?出来ていたとして、サポートしてもらえたら、明日も生きていけると思います。その明日に何かをつくりたいなぁ。