性別不合。脱病理化は当事者の首を絞めた可能性がある。
【想定している読者層】
・性別不合に関心のある方
・脱病理化の影に関心のある方
1.この記事の結論
脱病理化では差別は解消されないし、当事者の福祉は向上しないどころか逆効果ですらあり得る。
2.LGBTに関連する脱病理化
性同一性障害が脱病理化されたのは2019年の事でした。今から5年前の出来事です。目的はQOLの向上です。
同性愛が脱病理化されたのは1993年のことです。
31年前の出来事です。
日本では1994年まで、同性愛を非行としていました。
ただ、ひとまず撤廃されました。
30年前の出来事です。
順調な気がしますが、
その結果、QOLの向上や差別の撤廃はなされたのでしょうか。
結果は次の記事が象徴しています。
そこで、結論です。
脱病理化による福祉の向上は理念ですらない。
3.いつになったら何が変わるのか
そこで、この見出しのような疑問がわいてきます。
「じゃあいつ変わるの?」
例えば、不登校を例にすると、不登校も以前は病気扱いでした。
そのため、不登校児童生徒は精神科を受診していました。過剰な投薬を受けて、症状が悪化するケースも少なくありませんでしたし、新たな病人を生み出していました。そんな中、病院側がある事に気づいてしまったのです。「金にならない」と。恐ろしいですよね。
それで、脱病理化が後押しされた部分もあります。
しかし、実際には不登校の中には実際になんらかの病気を持っている事が少なくありません。そこは否定できません。勿論、なんでもない人もいます。
一方、世間一般から、不登校になる児童生徒は変だという感覚までは消えていません。学校恐怖症という診断が始まったのが1941年だとすると、約80年の時間が経っています。病気であろうとなかろうと、不遇な扱いを受けている例だと思います。
では、もっと広く「子ども」はどうでしょうか。
子どもは1762年にルソーによって「発見されました」
その後、子どもの権利が認められたのは、日本では1994年です。
約230年かかっています。
しかし、いまだに子どもの意見表明権に応答する大人はそこまでいませんし、その権利を知りもしないですよね。
むしろ、子どもに対して「権利を主張するなら義務を果たせ」みたいな無知で暴力的な意見が力を持っているのが現状です。
ちなみに、部落差別のような身分に関連する差別は1000年単位のものです。明治政府が撤廃しようとしたのが、いまから150年前です。
精神疾患当事者差別も昔から存在していますし、いまでも非常に根深いです。
https://www.jamhsw.or.jp/ugoki/hokokusyo/20110219-kenri/26-30.pdf
人による人の差別は1000年経っても消えるものではないし、権利が認められたり、脱病理化されたり、福祉の向上が図られたりしても、差別はなくならないし、「今やっている所」という状態になるだけ。
日本で行われた代表的な差別の一つとして、ハンセン病(らい病)がありますが、病気に対する理解が無かったために起きたような側面もありましたね。
人は人を簡単に差別し、尊厳を傷つけ、権利をはく奪します。
なので、「いつ変わるか」については、「世界が変わったとき」としか言いようがないという、途方に暮れた感じがしてきます。しかも残念ながら全ての差別は現在進行中です。消えてません。
4.受益の側面から見る性別不合
世の中には「○○的利益」という言葉があります。
LGBTに関する法的な改正は法的利益です。
性別適合手術の保険適用は医学的な利益と言えるように思えます。
あまり細かな言葉を使うよりも、「お金の分配」として考えた方が分かりやすいと思います。(日本型福祉レジーム)
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-04.pdf
国が持つお金には上限があります。しかし、国にはそのお金を必要とする人が大量にいます。そのため、お金を分配するためには優先順位をつける必要が出てきます。同時に、分配するためのお金を国民から集める必要もあります。
そこで問題となるのは、「どのような理由で国民からお金を集めれば納得感が得られるのか」と「どのような理由でお金を分配すれば国民が納得するのか」と「国の将来にとって有益かどうか」といったところです。
では、性別不合に考えを切り替えます。
いわゆるLGBTは、法的にも医学的にも利益をあまり受けられていません。
現在、獲得している最中であるとおもいますが、お金の分配を十分に受けられているとは到底思えません。
その中で、性別不合は脱病理化されました。
雇用や福祉の向上を目的としていますが、過去を振り返ると、何も起こらないだろうとしか思えません。病気ではなくなったので、医療費の補助が受けられなくなっていくことも予想されます。これは追い打ちにも思えます。
当事者を縛り上げただけになっている。
脱病理化の背景となっている理念としてQOLの向上等々があるので、そこは実際に否定しようもないきれいごとです。ただ、それだけでは済まないと言うことを議論することが必要です。
そして、脱病理化された中で「いや病人です!」と主張するのも難しくなるので、どのように医療面等での待遇を求めていけば良いのか、テクニカルな論証が必要になります。
とにかく、QOLの向上がお金を分配しない理由として使われてはならないと、私は思います。
脱病理化だけでは、その背景にどんな理念があろうとも、現実を変える力はない。脱病理化と抱き合わせで、お金の側面と待遇の側面を同時に改善していかなければなりません。
ここまでくると人権の綱引きは人類の病気ですらあり得るし、むしろそういう生物なのかもしれませんね。
二要因理論は心理学的にも使いますが、重要な観点を提起していますので、参考になるように思います。
また、深層民主主義というイデオロギーにも注目してみたいところですね。
結論は出ませんが、議論すべき点はまだまだありますし、議論の場に何を持ち出すかについても、道具立てをしっかり考えていかなければなりませんね。
私自身は一人の教員でしかありませんので、あまり大きなことはできませんが、目の前の子ども達やこれらの事で苦しんでいる人たちを放っておくことができずにいます。何かできるこがあればいいのですが…。
最後までお読みいただきありがとうございました。