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文楽で描かれる価値観に癒されることについて

先日投稿した記事の続きというか、文楽に対する偏愛を語ってみようと思います。

文楽の演目で描かれるもの…よくあるのが、忠義のために自分の子供を殺す、という話。今の価値観だとありえないですよね。

それから、心中モノ。世間への義理を欠いたり面子が潰れてしまうと、もう生きては行けないから心中する、現世では結ばれないから来世に託して心中する…というのも多いです。

総じて、人間の命が軽いんです。つまるところ。

人権なんて無い時代のお話ですから…

そのうえ、人形が演じるので、首を切り落としたり、切り落とした首も小道具のようにお話の中で使われます。例えば、「妹背山婦女庭訓」というお話では、さっきまで生きてたお姫様の首が、小さな筏に乗せられて、川の向こう岸まで運ばれたりします(これだけ読んだら意味不明だと思いますが)。切り落とされた首を抱えて嘆くシーンも、割と普通にあります。

そういう感じで、人間の命の重みや、なんなら遺体の扱い方も全然違うのですよね。

はじめは「価値観が違いすぎて共感できない」と思ったとしても、いつの間にか浄瑠璃の激情に流されて、ポロポロ泣いてしまったりする。表層的な現代の価値観では共感できなくても、時代を問わず一貫している『心の琴線』を揺さぶられてしまうのです…。

初めの頃は、あまりに人間の命が軽いので、ズシーンと重くるしい気持ちで観劇を終えた事も多かったです。

とはいえ、重くるしいのが嫌かというと、そういう訳でもなく。映画でも、人間の根源に触れる重厚で重苦しい作品って普通に人気ありますし。同じような感じです。

当時と価値観が違いすぎるので、完全に現実逃避できるのが古典の良さ。特に、四時間を超える演目だと半日近く劇場に篭って江戸時代の価値観に浸れます。資本主義や効率主義で運営されてる会社社会の価値観から隔絶されますので、仕事のストレスが酷い時は、駆け込み寺のような感じで、ボサボサ頭でスッピンで通っておりました。

加えて…「来世信仰」。当時は、江戸時代の社会制度や暮らしの厳しさを前提に、現世の幸せを諦めて、来世で救われる事を願ったそうです。それが転じて、死ぬ事自体が救済という意味を持ったとか。

現代の価値観って、現世思考が強いですよね。現世的な幸せ…「マズローの5段階の欲求」ではないですが、生きてるだけでは事足りずに、自己実現欲求まで積み上がっている。あれもこれも、自分が幸せだと思う事を取り揃える。足りないところに着目して、それを埋めることも幸せを追求する営みだったりします。

自分自身もそういう現世的な執着心はありますが、歳を重ねていくと「自分の人生では、もはやこういう欲求は満たせないなぁ」と環境や条件の制約も見えてくる。一方で、足りないところを埋めたくなる執着心も捨てられず、他人を羨んだり自己嫌悪に陥ったり…と、日々、揺れ動いています。

そんな中で、文楽の演目で「来世信仰」に触れると、とても癒されるのですよね。肩の荷が降りるというか。「別に、来世に託せばいいじゃない」と思えるというか。

単にお話を味わうだけじゃなく、価値観の違いに癒される、という要素が私の場合はとても大きい
です。

ちなみに、演者さん達が苦悩を全面に押し出してないところも好きです。高尚な芸術って、作り手が苦悩してる感じがするじゃないですか…。
でも、演者さんは「芸能」としてパフォーマンスしてるので、「芸」として磨きをかけるという、良い意味でドライでからっとしてるのが救われますね。特に、終演後の片付けが早くてさっさと帰る所も好きです。

そんなこんなで、文楽に対する偏愛を熱く語りましたが、こんな楽しみ方をしてる人もいる、ということで。楽しみ方に正解は無いので、単なる一事例のご紹介ということでご理解いただければ有難いです…!よく技芸員さんも「ご自身の楽しみ方を見つけてほしい」とおっしゃっていますので…。

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