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祈りの境地がちょっとわかった気がした話

こんにちは。Hakali Inc.の秦です。
北海道にある浄土真宗のお寺に生まれて、今は住職になる前の俗世での修行期間として、7名のスタートアップでデータ活用コンサルタントとして働いています。
せっかくの修行期間なので、働く中での気づきを書き残しています。

今日は「祈り」について。

よく映画とかで、大切な日の朝に、仏壇や神棚に手を合わせるシーンありますよね。

「ちょっと!遅刻するわよ!早くしなさい。」

「はーい!待ってて、今行きますー!」
(仏壇の前に正座して、手を合わせる。)

こういうシーンです。

あれの気持ちがちょっとわかった気がした話です。


プレゼン前夜 「あ、なんかトイレ掃除しよう」

先日、ある案件で、少し重要なプレゼンをする機会がありました。
しかも初めて自分だけで全てを担当するプレゼン。コロナでこの先どうなるかわからないご時世、絶対成功させねば!とかなり気合いが入っていました。

いつも資料作成にかける3倍くらいの時間を費やして、練りに練って、何度も読み直し、何度もプレゼン練習をしました。

そしてプレゼン前日の夜、もうこれ以上準備できることはない、今の自分の最大の能力の出し切った、というところまで煮詰めたとき、不思議な感覚が湧いてきました。

「あ、なんかトイレ掃除しようかな」
「机のホコリ拭こう」
「歯磨きめっちゃしよう」

いつも適当にしていることを、すごく丁寧にやりたい気持ちになったのです。そのとき思いました。

「これがあの手を合わせる感覚なんだ。」


「祈り」というと、「何かのお願い事をする」というイメージを持つ人が多いかと思います。
「お願いします神様!プレゼン成功させてください!」みたいな。それとはちょっと違う。

心がすっと澄みわたって、結果はまあどう転んでもいいだろうという感覚。
「感謝」「謙虚」「慈悲」といった言葉がしっくりくる感じ。

プレゼン作ってる時はずっとそわそわして緊張していたのに、その時からなぜだかすごく落ち着いて、穏やかで心地よい感覚になりました。不思議体験。


「自力」と「他力」

仏教には「自力」と「他力」という考え方があります。

「自力」とは、
自分の力で求めるものを実現させようとする姿勢です。

それに対して「他力」とは、
自分の力ではどうすることもできないことがあると知り、自分の範囲を越えたところではたらいている、大きな流れのようなものに、お任せをするという姿勢のことを言います。
よく「自分のはからいを手放していく」と表現されたりします。

今回の自分の体験をこのことに照らし合わせてみると、
自力でやれるところまではやり切り、自分の力の限界を知ることができたことで、これ以上は自分の力じゃどうしようもないという、自らのはからいが存在しない「なるようになるだろう」という心持ちになった。
それが、この穏やかで落ち着いた感覚の正体だったのかなと思いました。

(親鸞聖人は、この他力を「阿弥陀如来の本願力」と言っています。南無は「お任せする」という意味なので、南無阿弥陀仏は「他力にお任せする」という意味になります。他力は仏教の中でもとても重要な概念なのです。)

(現代でも使われる「他力本願」はもともとこの他力からくる仏教の言葉。現代では他人任せという意味で使われますが、仏教での意味はちょっと違うんですね。)


僕は自力みが深いと自分でも思うし、それが自分を磨く原動力になってる面もあります。
それを認めつつも、自らのはからいを手放した穏やかな境地があるということを感じながら、手を抜かずに頑張る。
それが仏道を歩むということなのかなあと現時点では思っています。


最後に、最近読んだ本で見つけた、社会学者の最首悟さんの言葉がとっても素敵だったのでシェア。

「わからないからわかりたい。でも、一つわかるとわからないことが増えているのに気づく。人にはどんなにしても決してわからないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかな優しさに包めれるのではないか。」




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