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終戦の日に「戦争論」と「歴史の宿命」について考える


今年も8月15日がやってきた。

昭和天皇が終戦の詔勅をお読みになられ、日本が大東亜戦争に敗れた日である。

わたしの外祖父は明治40年生まれで100歳で亡くなった。

終戦の時は30代後半だった。

身体が弱かった外祖父は徴兵検査に落ちて戦争には行かなかったが、仲良くしていた後輩が徴兵されて南方か満州で亡くなったと聞かされた。

靖国神社に初めていったのも記憶はほぼないが小学生に上がるか上がらないかの時だった。

他の記憶はほとんど覚えていないのに、なぜかハッキリ覚えているのは「俺の友達がここで眠っているんだよ。だから毎年墓参りと靖国神社に来るんだ」という言葉だった。

それからは毎年この日が近づくと靖国神社に参拝をしている。

靖国神社は戦争讃美の神社でもなければ最近の自称保守が勘違いをしている慰霊の場所でもない。

戦争で亡くなられた英霊達はみな「靖国で会おう」と言って亡くなられた。

だから名前は出さないけれども保守を名乗っている政治家が靖国神社にいって「英霊の方達に追悼の念を…」とかカメラに向かって喋っていると「ああ、立派な学歴と肩書きのあるこの人も中卒か小卒のしがない床屋だったうちのひいじいさんより靖国神社のこと知らんのかぁ」と思う。

大東亜戦争、太平洋戦争。

この戦争について「あれは100%侵略戦争だったんだ」とか「いやいや100%自衛戦争だったんだ」とかよく論争をしているが、どちらも正しくないと思う。

これは小林秀雄という昭和を代表する文芸評論家が「近代の超克」という座談会の中で表現している。

当時名のある哲学者、思想家、大学教授、作家などが集まって、この戦争について語り合った。

近代の超克自体は1943年の戦争真っ只中に開かれていて、その時は皆「この戦争には大義がある」「この戦争はアジアの解放になる」と肯定的に語っていた。

しかし、戦後ほぼ同じメンバーで集まった際には皆口々に「わたしは間違っていた」「軍のあの人が間違えた」と言った後ろ向きな発言が目立った。
負けた戦争なのだし、当時はGHQの占領中なので仕方がない面はあるが。

その中で小林はずっと黙っていた。

唯一、彼が喋ったのは「利口な人達はずいぶん反省なさるがよろしい。わたしはバカだから反省はしない」という一言だけであった。

言葉遣いや表現は多少ズレていると思うが恐らくこんな内容だったはずだ。

のちにこの座談会に参加していた林房雄が「大東亜戦争肯定論」という本を書いていて「大東亜戦争は幕末のペリー来航と開国から定められた日本の運命、宿命の戦いであった」というものと同じ気持ちだったのだと思う。

要するに、やれあいつが悪いわたしが悪いとか誰も悪くないとかそんな目先の反省なんか意味がない、やるだけ無駄であるということである。

この時の小林秀雄の心中をおもんばかってか、西部邁はよく「俺はバカだから反省なんかしねえ。利口な奴らはたんと反省しやがれ」というあえて乱暴な言い方で小林の言葉を振り返っているが、きっと品格もあって教養もある小林も心の中はこんな乱暴な言葉を吐きたくなる気持ちだったと思う。

ペリー来航から戊辰戦争を経て明治維新がなり、国内の整備を整えて憲法を作って日清日露を戦って…と振り返ると長くなるが、そもそも明治維新こそが大東亜戦争開戦の引き金だったと思うわけである。

このことは満州事変の首謀者として有名な石原莞爾が戦後、東京裁判の証人に呼ばれた時に「(この戦争の原因になった者は誰かと聞かれ)ならばペリーを連れてこい。我々は鎖国して日本人だけで平和に暮らしていたにも関わらず、ペリーが無理やり開国させたから欧米列強に侵略されないために富国強兵をして欧米に近づこうとした。だから戦争になったんだ」と言っている。

最近の人だと文芸評論家の浜崎洋介先生が芥川龍之介の「ぼんやりとした不安」から近現代史の光と陰について論考している。

要するに芥川龍之介が自殺する前に口に出し、文字に残した「ぼんやりとした不安」が日本人に蔓延してきたのが大正から昭和に入るあの歴史だったのだと。

大正デモクラシーと言って都市部は煌びやかで洋風の文化に身を包んだ者が闊歩して、田舎はまだまだ古き時代の日本と貧乏な生活を引きずって、それが関東大震災でぶち壊れて日本人が日本人らしさを忘れてしまって不安になった時代と芥川の死。

これを今見直すと戦争が近付いているかおりがしてくる。

わたしは夏目漱石の「こころ」を読んだ時に同じことを感じた。

作中の先生の自殺に関して、漱石は乃木希典の殉死をここに重ねるような書き方をしている。

わたしは乃木希典が大好きなので少し脱線するが、乃木について語らせてほしい。

乃木希典は明治期の陸軍軍人である。

彼は西南戦争で軍旗を奪われる失態を犯した。

軍旗を奪われるというのは、天皇の体を奪われることと同じ意味であった。

自ら命を絶とうとしていた時に明治天皇に命を拾われた。

明治天皇は「乃木よ。死んではならぬ。お前の命、朕に預けてはくれぬか」と言って説得した。

これ以降、乃木は明治天皇のためだけに生きたといっても過言ではない人生だった。

日露戦争では2人の息子を失った。
自らはその戦い(旅順攻略戦)の指揮官であった。

旅順要塞は堅固で、難攻不落と言われていた。

敵将クロパトキンは「例え100万の軍勢に攻められても落とせまい」と豪語した。

海軍による攻撃の催促を陸軍が承諾してしまい、乃木希典率いる第三軍はほとんど手探りでこの要塞を攻撃。

多数の死傷者を出して作戦は何度も失敗した。

乃木邸には石が投げ込まれたり、脅迫電話まで殺到した。

大本営では自分達のせいで第三軍と乃木が苦戦していることも棚に上げて「乃木を更迭すべきでは」という議論が起きた。

ここでも明治天皇の「乃木を変えてはならぬ」の一言でその場は収まった。

そして戦後は「乃木はこたびの戦いで息子を失い心を痛めたであろうから、子供達を育てる役職を与えてやってくれ」という心優しき明治天皇の配慮で学習院院長に就任。

まだ幼き頃の昭和天皇を厳しくも優しく指導して、曲がったことがお嫌いで、正義感の強い昭和天皇の人格形成に大きな影響を与えた。

孫である昭和天皇の成長と、乃木の落ち着いた日々を見届けたかのように、明治天皇は崩御なされた。

そして大葬の儀の最中、乃木は妻静子さんと共に自害なされた。
侍の作法に則った切腹であった。

話を戻すと、この切腹という武士道精神と明治天皇への忠義の精神という日本的な価値観と、その後の大正デモクラシーの時代への移り変わりが不気味に感じたのだ。

漱石も口には出さなかったけれど、そんなことを考えていたんじゃないかなとたまに考える。

また、話は変わるが大東亜戦争で必ず語られるのは特攻隊である。

特攻隊と聞くと爆撃機や戦闘機に爆弾を抱かせて体当たりする「神風特別攻撃隊」をイメージする人が多いだろう。

だが、他にも魚雷を人間が操縦して体当たりする「人間魚雷回天」や小型機を巨大な爆撃機に吊るして敵艦隊に近づき、発射して人間が操縦して体当たりする「桜花」などがあった。

彼らの死はよく「無駄死に/犬死にであった」「無謀な作戦の犠牲者」と言われる。

一番酷かったのは9.11の時にアメリカで「カミカゼだ」と言われたことである。

そもそも敵の兵士や空母や戦艦という人や土地を破壊するために存在するものだけを攻撃する特攻と、戦争とは関係ない一般人をあえて狙ったイスラム教のテロは全く違うのだ。

だが、これの説明をすると必ず「右翼」「ネトウヨ」と言われるのであまりしないようにしている。

結局人は自分が信じたいものだけを信じて信じたくないものは信じない典型的なパターンだ。

話を戻すと彼らは何のために死んだのだろう。

それは愛する家族や恋人、友人が暮らす日本本土が自分の死によって1日でも早く講和がなって平和に暮らしていけるために死んでいったのだ。

靖国神社には遊就館という建物があるが、そこに戦争で亡くなられた兵士が家族や恋人に残した手紙がある。

それを読むと10代の頃から毎年読んでいるのに涙が止まらなくなる。

彼らは決して洗脳されていたわけでもなく、無理矢理行かされたわけでもない。

かといって、戦争モノによくある「天皇陛下バンザイ」を心の底から思って叫んだかというとそれも違う。

特攻隊員の最期の言葉は大半が「お母様」だったとされている。

それは、ただただ愛する人を守りたい一心で、その想いで恐怖心をも抑え込んで、立派に敵に突っ込んでいった。

特攻隊の手紙には「妻〇〇様へ。お元気ですか。最近は配給も減っていると聞きますが大丈夫ですか。あなたと会えなくなるのが本当にさびしいです。でもわたしの心は常にあなたの側におります。
そして娘〇〇ちゃん。お母様から元気な様子を聞いて嬉しく思います。お母様の言い付けをしっかり守って、たくさん遊んで、勉強もしっかりして立派な人になってください。それではお元気で」
という内容ばかりだった。

昨今の母親が父親を尊敬せず、父親は簡単に浮気をして、娘や息子は非行に走り、簡単に性行為に及んでしまうこの時代を彼らは天国からどう思うのだろうか。

戦時中の人達は公のために生きて公のために命をまっとうした。

俺が私が金儲けができて幸せになれればそれでいいという今だけ金だけ自分だけの現代人には到底到達できない高い精神性を持った人達だった。

それは時代が違えど日清日露の戦役を戦い抜いた人達も同じ志だったと思う。

特に日清戦争や日露戦争はより日本の存亡をかけた決戦だったのだから尚更だろう。

あの戦争は間違いだったとか正しかったとかそういう表面的な御託を並べるのは違うと感じる。

それよりももっと深いところで、歴史の運命や宿命という抗えないうねりの中で我々はどう考えてどう生きなければならないのかを考えなければならないと感じる。

それが本当の意味で歴史を省みて過去の人々に思いを馳せて今を生きることの意味だと思う。

終戦の日である今日、ふと思った次第です。

大東亜戦争や日清日露戦争に関してはいくつも映画や本があるのでまた一部紹介したい。

ぜひとも目を通してほしい。


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