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考えすぎていた過去の自分へ。憧れ・理想を手放したら"そのままでいい"の意味が変わった話

この10月、11月にかけて、わたしの26年間の人生の中で引っかかっていたものが、一つ外れたような感覚があった。

大切な感覚。
だから、ちゃんと残しておきたい。

気になってくれた人、ありがとう。
ちょっと長めだけど、よければ読んでいってください。


★目次
1.「そのままでいい・ありのままでいい」。"自分を認める"ってどういうこと?
2.憧れ、理想を追いかけていたこれまで
3.追いかけることをやめると、「そのままでいい」の意味が変わった
4.変わりゆく今に身をゆだねて




1.「そのままでいい・ありのままでいい」。"自分を認める"ってどういうこと?

わたしは考えすぎるし、傷つきやすい。
昔からそんな自覚があった。

誰かに言われた一言や表情一つに
「あれはどういう意味だったんだろう?」
「あの時こう言ってたらよかったな」などと、
一人反省会をするのは日課のようなもので。
だれかが近くで笑っていると、「自分が笑われてるかも」と思って鏡をチェックしたり、
人に何か言われる前に「こう思われないかな?」と言われそうなネガティブ要素をめちゃくちゃ考えておいたりもする。
人と何かに取り組む時も、上手くいかないことがあると「わたしのせいかもしれない」「わたしがあれをちゃんとしていたら、、、」と自分を責めることは、もはや義務だ。

誰に教わったでもない、傷つかないように自分を守るようにと自分の中で培ってきた、最善策のつもりだった。

しかし、それが自分自身を傷つけていた自傷行為だったことに気づいたのは、大人になってから。

幸いなことに、周りの人には恵まれて育ってきた実感があった。誰かから無下に否定されたことも、咎められたこともない。友人や周囲の大人はみんな優しかった。平凡な毎日を過ごせていた。
それなのに、些細なことで落ち込む自分がいた。

なんでこんなにいちいち考えるんだろう。
悩むんだろう。怯えるんだろう。
きっと自分の性格がネガティブだからだ。
こんな風に考えすぎる自分が悪いんだ。
こんなに考えてることを知られたら、面倒くさい奴だと思われるかもしれない。
一緒にいたくないと思われるかもしれない。
このままじゃダメだ。

そうやって、いつしかわたしは考えすぎる傷つきやすい自分をダメな人間だと捉えるようになった。

変えたい。変わりたい。

そうして、自分を変えるための解決方法を探し続けていた矢先だった。「自分を認める」に出会ったのは。

この方法に出会うまでも、考え方をポジティブにしてみたり、考えすぎないようにしてみたりと、捉え方を変える方法はやってみていたが、イマイチ変われている実感はなかった。
それはきっと、ネガティブがダメだ・考えすぎるのがダメだと、根底に自分への否定があったからだ。

でも、"認める"となると否定はない。
しかも「否定する自分も認めよう」などと言われている。
これこそ、私に必要なことかもしれない!!

そう直感的に感じたわたしは、具体的にどう"認めればいいのか"を学ぶため、関連本を読んだり、セミナーを受けたり、リトリートに参加したりした。
そのままでいい。ありのままでいい。
それを感じた人の体験を聞いたり、自分の体験を話して受け止めてもらえたりする空間は、とても心地がよかった。「わたし、このままでいいんだな」と感じる瞬間もあった。

しかし、
日常に戻るとまたあの感覚はやってきた。
以前よりは、いくらか考えすぎなくなっていたし、傷つく頻度も減っている。自分でつける傷もだいぶ浅くなったことに、間違いない。

にもかかわらず、特に人と比較したり、ミスが続いたときには
「あれもできていない、こんなこともまだできない」
「自分のやることはやっぱり間違っているのかもしれない、、、」
「自分には何もない」
否定する気持ちが、また湧き出てくる。

変われてない。

これじゃあ、ダメな自分のままじゃないか。

自分を認められるようになったはずなのに、
なんでこんなことをまた考えてしまうんだろう?

そもそも、
わたしの"そのまま"、"ありのまま"ってなんだ?
"自分を認める"ってどういうこと?


わからなかった。


2.憧れ、理想を追いかけていたこれまで

思えば、わたしの変わりたい願望は人一倍強かったように思う。中でも強かったうちの一つは「成長したい」という願望だった。

その"成長"の要素は、「いい人になること」、「信頼される人になること」。
傷つくことを恐れていたわたしにとっての最善策だった。

誠実で、目標に向かって努力していて、人より一歩先を考えられて、自律していて、
目の前の人の気持ちにも寄り添ったうえで、本当にその人やその人の未来のためを思った言動ができる。
そんな人をいい人・信頼される人だと、
"成長した"未来の理想の姿として思い描いていた。

今思えば、理想が叶って
いい人・信頼される人になったら、
傷もつかず、幸せになれるとでも思っていたのかもしれない、なんて思う。

しかし、当時はそんなことは見えていなかった。
理想を実現できるように、自分にできそうなことは自分なりにトライしてみた。
理想の人が普段やっていそうなことを元に、生活や仕事の中での決まりやルールをつくってみたり、
理想と重なる憧れの存在に出会えたら、その人たちの習慣を真似してみたりと、
とにかく"成長"を目指していた。がむしゃらだった。理想の自分になるために、と。

でも、結局、理想の姿を実現できたかというと、
できていない。
やればやるほど理想から遠ざかっていく感覚すらあった。

それもそのはず。
まず、自分で決めた決まりやルールを守ることができなかった。
毎日○○をする、と決めて、毎日やらない。
何時にスタートしよう!と時間を決めて、やらない。
なら頻度を減らそう!と週3にしても、やらない。
どうやったら継続できるのか、モチベーションが出てくるのか、そんなことばかり調べて
それをやってみようとするけど、それすらもやらない。
やろうとするけど、やれないが続くと、人はやろうともしなくなってくるようだ。
「少しでもやり始めたらいい話じゃないか、モチベーションはやり始めてから出てくるものだ」という声も聞こえてきそうだが
実際やり出してみた時、頭をぐしゃぐしゃにかき乱したくなるような拒否反応が出たのでやめた。

これに関してはやろうとしていたこと自体が嫌いだったのかもしれない。
とも思ったが、それからというもの、他の決まりを守ることも難しくなってしまったから、もう手の施しようがないと思ってしまった。

自分で決めたことなのに、
なんでできないんだろう。
誰かから言われたわけでも、
できていないと責められてるわけでもない。
自分がなりたいから立てた目標なのに、なんで?
本当はなりたくないんじゃないの?
だから頑張れないんじゃない?
いや、でも嘘じゃない。
本当の気持ちだったはず。
なのにそのために行動できないなんて。
「自律」できてない。
社会人失格だよ。
できないならできるように頑張れよ。
頑張れないなんて人としてどうなの?
価値がない。みんなに見放されるよ。
だれもそんな人、信用しないよ。

何かを決めて、やってみようとして、できない。
その度に、こんな思考がループした。

"決まり"や"ルール"という言葉を聞くたびに
「うっ」と胸が苦しくもなってきた。
やらなきゃ。ちゃんと。
でもちゃんとできなかったらどうしよう。
またやめてしまったらどうしよう。
できないとまた自分を否定してしまう。
それは本当に苦しい。
決めたことをやることが怖い。
いやだ、やりたくない。
わたしにはできない。

そう頭の中で自動変換されるようになってしまった。

憧れを叶えるために、
理想の「未来」のために、
「今」を変えようとした結果がこれだった。


、、、
もう、何も決めたくない。
自由でいたい。

傷だらけになったわたしの心から出てきたのは、こんな言葉だった。


そして、

わたしは憧れを、理想を、手放すことにした。


3.追いかけることをやめると、「そのままでいい」の意味が変わった

憧れを手放してみると、すごく気持ちが軽くなった。

未来のために今を変えようとしていたことが、
自分を傷つけていたんだと、本当の意味で気づいたのは、これを手放してからだった。

ずっと、ずーーっと、理想や憧れを元に動いていたから、周りからは楽しそうに見えていたかもしれない。(現実見ろよとも思われてたかもしれないが、、、)

でも、常にどこか苦しさを抱えていた。
それはきっと、
基準が"今の自分"以外のなにかにあったから。

実際、楽しいこともたくさんあった。
理想を見ていたからこそ、出会えた人・場所・価値観・経験、その全てがわたしにとってかけがえのない宝物になっている。
だから、理想を持つこと・憧れを抱くこと自体は大事なことだと思っているし、今も手放したからと言って理想を持っていない・憧れを抱かないわけではない。
むしろ、めちゃくちゃ描く!(笑)

ただ、「○○のために、する」のをやめた。

目標に向かって努力している人が信頼される人だと思っていたのは、
目標があることが社会の中で信頼されることだと思っていたからで、
その努力の度合いも、他の人の努力量が基準だった。

目の前の人の気持ちにも寄り添える人、本当にその人やその人の未来のためを思った言動ができる人がいい人だと思っていたのも、
目の前の人の気持ちが基準で
それに寄り添うこと、その人の未来のためを思った言動ができることが「正義」であり「善」であるといった、これまた社会の価値基準を自分の価値基準にすり替えていたから。

他に基準があるからこそ、
目標がないと、そこに向かえないと、他の人くらい努力ができないと、自分は愚かな人間で、
相手の気持ちがわかれていないと、相手のためになにか伝えられないと、自我が少しでも入ると、自分は傲慢な人間だと、
戒め、責め、否定してきていた。

そりゃ傷だらけになるはずだ。(笑)

なにか行動を起こすのは成長するため。
いい人になるため、信頼される人になるため。
それは理想や憧れに近づくためであり、
ひいては未来の自分のため。

そう思っていたけれど、なにかのための選択をすればするほど自分を傷つけていたんだ。

だから、わたしは「○○のため」と選択するのをやめた。
そして、"今の自分"に基準を戻すことにしたのだ。

今、自分はどうしたいのか。
どの選択が今の自分にとって心地いいのか。
それを一度自分に聞いてから選択する。

人の目気にして対応したほうが今の自分にとって安心ならそうするし、
ちょっとリスクを感じても、そっちを選択したほうが自分がいいと思うならリスクをとる。
なにかの"ため"になることも、自分自身がやりたいかどうか心に一度聞いてみる。
そうやって一つひとつ選択をしていくと、徐々に自分を否定する声が聞こえなくなっていった。

きっとこれは、
今の自分がすべての基準になったから。

見た目も性格も気分も感情も、
今の自分にあるものがすべて。
それ以上でも以下でもない。
いいも悪いもない。
嫌いな自分もいる。不満もある。
でも、それでいいんだ。
それが、今の自分。
変えなきゃいけないものなんてない。

そう思えた時、わたしの中で
「そのままでいい」の意味が変わった。


4.変わりゆく今に身をゆだねて

"自分を認める"がわからなくなったのも、きっと、
変われていない「今」の自分を、許せていなかったから。憧れの姿ではない「今」の自分を、認めることができなかったから。

「変わりたい」ということが自分自身を否定していることに気づかず、形だけの"認める"をしていても、本来の自分を否定していることに変わりはない。結局は認められていなかったんだ。

ダメな自分のままでいい。
考えすぎな自分でも、
傷つきやすい自分でもいい。
理想が叶ってなくてもいい。
それでも、
こうなったらいいな~
これやりたいな~ って気持ちは、ある。
ただ、今自分が感じたことが、ある。
それだけ。

そうやって、今感じたことのすべてをただただ見つめられた時、そのままの・ありのままのわたしを、認められた気がした。
"自分を認める"ことができた。


未来を見ることが正しいと思っていた。
未来のために今を選択することが必要だと思っていた。

でも、未来なんて誰にもわからない。
想定していたことが起こるかどうかもわからなければ、社会の正しさや倫理観、常識なんて今現代でも変わっていっている。
未来は変わっていくんだ。
それは一寸先の自分の気持ちでさえも。

だから、
今のこの考えすらも変わっていくかもしれない。
こんな投稿しておいて、明日には全然違うことを言っているかもしれない。
でも、それでいい。
変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
それでも今はこう感じる、と、
ただ「今」の自分の感覚を信じるんだ。

感情にもグラデーションがあるから、
「こう思うけど、こうも思う」
そんな矛盾する今の感情も100%で受け取って。

いつも問いかけるのは今の自分。
今、どんな気分?
そうなんだね、そうなんだね。
それで今、どうしたい?

そうして自分と相談しながら、
前に進んだり休んだり
時の移ろいに身をゆだねながら
「今」を重ねていきたい。

それが「今」を生きる自分の
一番大切にしたいこと。


今までつけてきた傷が、
減ってきているような気がした。

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