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心の平安は

 ふと口から出た「そうかもしれないね」。そしてにっこり笑う。
私は素敵に年を重ねていると、少しホッとした。最近気持ちが軽いのはこれが出来るようになったからだと気付く。

 「いいや、自分は間違っていません。」「あの人が悪いんだ。」
そう言いながらもなぜかとても苦しそうなその人たちを眺めながら、「この人は認めたら終わりだと思っている」と感じる。
 自分の過失を認めてしまったら、自分の負けを認めてしまったらおしまい。でもそう思えば思う程焦り、汗をかき、口から出る言葉には全く説得力がない。周りとの温度差が広がっていき、返って信頼できない人間になってしまう。そんな自分に自己嫌悪を感じながら、でも人に弱みを見せてはいけないようなそんな若い頃の思い出がある人は少なくないだろう。
 そんな苦い若者時代を過ごして、そこからが二つに分かれるのだろうと思う。そのまま不満不平を繰り返しながら年だけ重ねていく人。
 一方、自分の過失を認めて改めることで成長を感じ、成長し続けていく人。その転機はどこで訪れるのだろう。それはわからないけれど。

 素直な気持ちを持ち合わせていれば、人は成長する。それは日々子どもたちを見ていて感じること。「自分は間違っていない」と言わなければ許されない環境の中にいる人は、自分を守り続ける。それはそのまま今の社会の様な気もする。「自己責任」や、自分が守るべきいろいろな人たち。それはもはや自分だけの過ちではなく、組織の過ち。社会の過ち。

 私の体からポロポロと剥がれ落ちていくのは、この社会の中で「〜すべき」「〜であるべき」「普通はこうする」といわれているもの。違和感が苦しかったので、そこから降りることにしたのだ。
 するとなんて自由で心が楽なんだ、と思う。競争する様に「普通」にならなくてもいい。もう自分は「普通だ」って言い張らなくってもいい。

 私にとって一番正しいことを、ただ自分のペースで。そしてそんな裸の心には、人からの言葉もありがたく響く。
どんな言葉にも「そうかもしれないね」って笑って言えるもの。

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