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映画「夢みる小学校」感想

 ずっと気になっていたオオタヴィンさん監督の「夢みる小学校」を観てきた。映画の広告にあったのは、「宿題がない、通知表もない学校」「大人も子どももこんな学校に通いたかった」という言葉。
 正直私はあまりにも教育や子育てに近いところにいるばかりに、こういった「特別な」ケースにあまり惹かれない。みんなが憧れること、みんなしたいこと、でも社会が変わらないから仕方ないじゃん、という子育て中の皆さんの声を日々聞いていて、手放しで理想を追い求めることの難しさを常に意識してしまうから。
 でも、だからといって違和感を感じる課題を放置しておいていい理由にはならない。そして放置した結果、不登校増加教師のバトンなどのワードで代表される様に確実に教育は崩壊の一途を辿っている。私たちはもう、それを黙って観ている訳にはいかない状況。子どもたちの大事な「学ぶ権利」が保障されない現実もあるのだから。若者の自殺率増加を食い止める希望は教育にある、とも思っている。とにかく命懸けで教育を守らなければいけない、これが私が今立っている場所。

 だから特別であろうが理想であろうが、自分のアンテナがキャッチしたものには触れる。そんな想いで敬愛する友人の主催する自主上映会を観に行くことに決めた。

必要なものは安心感一択

 この映画で私が一番心に残ったのは、人の表情。話し方。大人も子どももワクワクしている。そのワクワクが思わずはみ出しちゃった、みたいな笑顔。そしてそれぞれが意思を持って「話している」姿。
英語講師をしていて一番ネックになるのは、人がロボットみたいに覚えた英語を話すこと。「間違ってはいけない」「言われた通りにしなきゃ」「恥ずかしい思いをしたくない」理由はいろいろあると思うけれど、そこにはいつも自分よりも他人がいる。自分がどう思う、というのを伝える言語でありながら、人のことばかりを意識して英語を口にする人たちを見ながら「どうしたものか...」と頭を抱える。日本語なら、良くも悪くも人の中で生きている意識の強い社会をベースにして話されるのでそれは自然。ただ、英語が元々全く違う人間だから自分が何を思うのかを伝え、相手が何を考えるのかを知る必要がある、というベースに立って話す言葉だからこそ不自然さが増すのかもしれない。
 とにかく私は、英語講師でありながら最初の数ヶ月は主に日本語でゆっくりゆっくり皆さんの警戒を解き、自分には安心して話しても良い、この場はそんな場所にしよう、と声をかけていきクラスを作っていく。
 そんなこんなで、この映画の中で紹介されていた「安心出来る居場所」作りという考えはかなりしっくりきた。安心出来る場所だからこそ、人は自分の思いを語り、安心して学びを深くする。私は自分の教室や学校現場を通してそれをずっと見てきているが、学びや自己表現のベースは安心感。
これは間違いなく真理だ。

名言多過ぎ

 映画の中で子どもたちは表情や行動でその安心感や学びへのひたむきさを見せ続けくれた。一方、出てくる教育者や学者の方々はその体験を活き活きとシンプルかつわかりやすい言葉で語り続けてくれた。映画の途中から、私は暗闇の中で持ってきたメモ帳にとにかく文字を書き続けた。とにかく名言が多過ぎた。

 私の心に突き刺さったのは、「実際人生の中で「答え」があることなんて稀で、ほとんどが「問い」に満ち溢れてる。だから「問う」ことは一生大事なこと。でも日本は教育の中でそれを封じ込めてきた。「問い続ける」こと自体が人生なのに、問うことを封じられたら、人生ってなんなんだろう?」
という旨の文化人類学者の辻信一さんの言葉。

 私は正にそれを痛感している。私は知りたいことを知らないと前に進めない子どもだった。今もそう。だから、わからないことは尋ねる。海外にいる時はそれが歓迎されたし、相手からも問いかけられて楽しい問答になることが多かった。けれど、日本では会議や会話の中でもっと知りたいと思うことを尋ねると答える代わりに怒る人もいる。そんなの言わなくったってわかるだろう、という言い方をする人もいる。本当にそうなのだろうか。みんなが知ったふりをしているか全く関心がない、ということはだいぶ大人になってから知った。そんな大人たちが「主体性のある」子どもたちを育てることができるのだろうか。

幼い頃の評価・通信簿は百害あって一理なし

 私は子どもの通信簿は所見の欄しか興味がなかった。いつもそこだけ見て「先生、よくみてくださってるね」と子どもの素敵な部分を見ていてくださることを一緒に喜んだ。
 でも知っている。多くの親がそれを我が子の価値だと思い込んでしまっていることを。多くの子どもたちが、親が、それを苦しそうに話すから。
そして悲しいことに多くの教師がこれを止めたがっていることも知っている。特に2020年から始まった悪策「英語教育の評価」に私はずっと反対し続けてきた。まだ2年だけれど、既に私や多くの英語教育者たちが心配していたことが問題になっているのは周知の通り。子どもたちが幼い内から「自分に英語は無理だ」と言い出したからだ。現場の先生方からは『「言葉」や「コミュニケーション」という、人の内面や人間性の部分をどうして自分が評価できようか』という悲痛な叫びが多く寄せられた。どうしたら良いですか、と尋ねられて苦し紛れに「全員Aにしたらどうですか」と言った。英語と出合う場所に評価は要らない。希望してもない新しい分野と突然出合わされて戸惑っている間に「あなたはCです」と言われて、「もっと頑張ろう!」「英語、出来る気がする!」って思う人っているんだろうか。

 私の教室では毎月最後の週に教室の生徒一人一人に一言を贈る。レッスン中に見たその子の素敵だったところを本人に伝えたい!という気持ちから。
そういう視点で見ると子どもたちとの日々は宝の山。キラキラ光っている。
でも、仮に「評価しなきゃ」となると、きっと私の目さえも子どもの「出来ていない部分」を見つける様になるだろう。評価ってそういうことだ。

良い悪いの映画じゃない

 映画の後のコメントでオオタヴィン監督が言われていた「これがすごく良いからみんなこれを真似しよう、という映画ではない」が全てを物語っている。
 最近気になるのは「方法」を聞きたい人が多いこと。ある取り組みをしました、と言えばその方法をすぐに真似できる状態で聞きたい、という人が殺到する。私もかつてセミナーや講演会で自分の想いを語る例として挙げた経験談や取り組みを、後日「真似してみたけどうまくいかなかった」と言われて驚いたことがある。
 最初に書いた「特別な場所で特別な誰かがやってる、夢みたいな業」を見ると、直後には熱狂して自分も同じことをしたいと夢を見るものだけれど。現実の生活を続けていると、あれは選ばれた人の出来ることだと情熱を失ってしまう。私も何度もそれを経験した。
 でも、きっとこういう映画やきっかけって、その例を通して見るその人が一番大切にしていることがポイント。例えばこの映画にあった「学校は楽しいだけでいい」っていうのは、かなりわかりやすいと思う。

 私も「楽しい学び場」作りをメインテーマに日々のレッスンを組んでいる。そうすると全く方法は同じではないけれど、私に出来る範囲での「楽しい」が見つかる。
 こういう映画や講演会は、共感して感激した気持ちをそのまま持ち帰って、何度も噛み砕いて自分の手が届くところまで細かく噛み砕いたら、きっと誰にでも何か出来ることがあるものだと思う。それが学校でもクラスでも家庭でも。

 方法じゃなくて共感出来た部分はどこか、そこにフォーカスしてそれぞれの場所で昨日と違うワクワクが生まれたら、それが一番だと思う。

 その「種」がこの映画なんだと思う。

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