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たまに感じるアウェー感

 友人と話をしていた。ある場所に行った時に、かなり居心地の悪さを感じたという話で、痛い程その気持ちがわかって胸が痛かった。

 私は英語講師だ。英語講師って世間的なイメージは、明るくて朗らかで誰とでも仲良くなれて、日本人離れしたコミュニケーション力で盛り上げてくれそう…なんて言葉が上がってきそう。私だって同じ質問をされたらそう答えるだろう。だって、英語講師仲間にはそう見える人がとても多いから。
 
 でも私は違う。仕事だったらいくらでも明るく出来るし、人を盛り上げてなんぼの仕事だから、それは自然に出来る。ただ、プライベートでは基本一人でいるのが好き。4人以上の人と集まると緊張する。初めて会う人、怖い。仕事とプライベートの自分が乖離し過ぎていて、自分でも戸惑うことがある。

 ただ、人と関わりたくない訳ではない。こんな自分だからこそ、嗅覚がかなり優れている気がする。場に入った途端に「ここ好き!」とか「ここ苦手!」がわかる。なんならSNSの投稿見るだけで体が反応する。

 それでも、時々「もっと自分の扉を開かなきゃ」と新しい場所に出ていく。自分を奮い立たせ、「なんだか嫌な予感はするけど、行ってみなくちゃわからないってことあるよ!」と行ってみて5秒で撃沈することも多い。
着くなり「早く帰りたい」と思ってしまうこともしばしば。

 何か新しい場所や大人数の会合に行く度に自分が嫌になる。みんな楽しそうに笑っているのに、私だけ気分が全く乗らずに完全にアウェーで全く話す気がなくなっている。いつの間にか自分の殻に閉じこもってしまう自分が嫌になる。そこに居れば居る程、感じの悪さは加速するし、でもどうしたらいいかもわからないし、下手に立ち回れば立ち回るほど自分が自分じゃなくなっていく様な気持ちになる。

 帰って子どもに「今日さぁ...」とため息混じりに話すと「それ絶対かーさんの場所じゃないやん。何で行ったん?」と言われる。
「そうだよね、そうなんだよね。でもさー、なんかいい出会いがあるかも、とか新しい学びがあるかもーって思っちゃったんだよね…」とひとしきり愚痴ってから「もう行かない」と心に決める。そしてほとぼりが冷めた頃、また出かけていく。その繰り返し。

 そして今日友人と話していて、自分と全く同じ経験をしている人の気持ちが痛い程わかると同時に、自然に自分の口から出た「それっていいことやん」って言葉に自分自身が励まされた。
 自分が好きか嫌いか、合うか合わないか、そのアンテナの感度が良いことは決して悪いことじゃない。そこで下手にうまく立ち回って、アウェーを感じながらも自分がその中で楽しんでいるフリが出来たら、自分の心が麻痺していきそうだ。
 思い返せば、学校生活や大学時代のバイトでは、私はそうやって「らしくない」自分を演じてきた。楽しくないのに楽しいって顔が出来たけど、後からどっと疲れて自己嫌悪に陥った。

 今こうして不器用ながらも自分らしくいられることって、気持ち良い。自分の心が「そこ、違うと思う」って教えてくれたら、それに従ってもいいんだと思う。合わない場所があるってことは、合う場所だってあるってこと。多くの人が楽しめる場所で楽しめない私の気持ちは、学校生活でしんどい思いを隠せずにいる子どもたちと一緒だ。そういう子たちの多くは、自分の心を麻痺させない素晴らしさがある。違和感に忠実なのは時として大切なことだ。特にこんな世の中では。

 いろんな人の気持ちがわかるって、すごく大事だし素敵なこと。これからもきっと私はまた何度でも出て行ってはアウェー感に打ちのめされるんだろうけど、それは自分の心を麻痺させないための経験なんだと思う。
 アウェーな気持ちのまま苦しんでいる子どもたちに寄り添える様に、孤独を抱えた人たちと共にいられる様に。

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