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邪魔な子

 もう数年経ったから時効。勝手にそう判断して書こう。
私の教室に来た、ある親子の話を。

 私はSNSでの発信を欠かさない。毎日twitter・facebook・インスタグラムやnote、他ブログで教室のことや私自身の方針を発信する。きっと書くのが好きな人だ、とか自分好きだと思われていると思うけれど。
どちらも正解。更に言うとある件をきっかけに私はこのSNS発信をより熱心にすることになった。その出来事のお話。

 教室を自宅教室から店舗での運営にした最初の年。家賃が発生することもあり、私は張り切っていた。その頃丁度ネット検索で教室を探す人からの問い合わせが増え始めていた。その中のほとんどが私が発信しているものをよく読まれていてその内容で教室を選んでくださっていたから、教室運営上困ることはほとんどなかった。信頼関係があるから。

 そんな中、入ってきた低学年の女の子。私のレッスンの特徴である「みんなが自由に発言出来る環境」の中で「他の友達の声がうるさかった」と感じた様子。最初のレッスン後に母親からメールで「辞めさせたい」と連絡があった。
 確かに私の問いかけにみんなが思い思いに話す環境は、家庭の環境次第では「うるさい」と感じるのかも知れないけれど。その「うるささ」は一人一人の声であり、意見や質問。それを「雑音」と思うことに対しては理解も出来るが、そこからその一つ一つの声を聞いて自分自身も呼応する様に発信する、その学びを飛び越えて「うるさい」の一言で教室を去ったのだ。私の目指す部分が伝わらず、また伝えるチャンスも与えられずただ一本のメールで去ろうとされたことが残念だった。
 辞めるのは大丈夫だけれど一度会って挨拶をしたい、と別の日に教室に来ていただいた。そして「お子さんはこれからいろいろな場を経験すると思うけれど、その中で何を感じ何を学ぶのか、少し余裕を持って見守ることもしてあげて欲しい」と伝えた。どんな場でも即席で出来る様になることや即席で人との信頼関係を築くことは不可能だ。それを伝えたかった。

 私がしていることは、きっと人によっては泥臭いと思うことだろう。人と人の交わりの中で、互いに助け合ったり理解し合ったりすることをリアルな場で実現したいと思っている。それは英語を学ぶ以前の話。他の人の言葉を「雑音」とだけ思う人に、国際人としての未来は無い。

 長く続けている子のいるクラスを眺めていると、おとなしめの女の子が大声でふざける男の子に「ほら、ちゃんと聞こう」とか「聞こえないよ!」って笑いながら注意しているのを見かけてホッとする。男の子も笑いながら「あ、ごめんごめん」と前を向く。
 全く違う持ち味の人たちがお互いを排除しようとせず、笑い合ったり助け合ったりするのが当たり前の世界。この女の子はどんな場所でも自分に必要な人との繋がりを持つ力を得ている。そしてこの女の子もまた、他の場面でこの男の子に助けられているという自覚がある。

 排除より配慮。私の好きな言葉の一つ。
同じ場所にいても、配慮する子と排除しようとする子がいる。それは周りの大人の影響も大きい。自分の子可愛さにあらゆる「邪魔なもの」を子どもの周りから排除している親の下では育たない力。
 もちろん自分にとって害のある場所からは離れる必要がある。でもそれは自分で学び取っていく力だ。人が決めることではない。害かどうかをその子自身が感じる間も無く、ただそれを消し続けていく中にどんな学びがあるのだろう。どんな成長があるだろう。良かれと思って子どもたちの人生に手を入れることが子どもたちの大切な成長を妨げていることに気付かない人も多いが、結果が現れるのは随分先の話。
 私たち大人も「見守る」「子どものペースで学ばせる」ための学びや心の余裕が必要だ、と改めて強く感じさせられた出来事だった。

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