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学びの本質

 私の英語教室は、モットーを『英語を嫌いにさせない』に絞っている。『好きにさせたい』と思っていた時もあったけれど、それも含めて私は子どもたちの主体性を大切にしたいと思っている。何を好きになって何に興味を持つか、それに私が関与するのはおこがましいと思うからだ。子どもたちに出来るだけ自然な環境を作って、何を選ぶのか何をすきになるのかを一緒にワクワクしながら眺めていたい。そうしている間に英語を別に「好き」になってもらわなくても「一番」にしてもらわなくてもいい、「嫌いにさえならなければ」、と思う様になった。英語はきっと今後必要になったり憧れたりする時がくる。その時に嫌いでなければ、きっとまた学びに戻りやすいものでもある。英語を嫌いにさえなっていなければ、変なトラウマさえなければ、きっと必要な時にスーッと戻り楽しむことが出来る。
 英語教室を十数年続けて、卒業生の様子を見ていると英語へのハードルが低くて救われた、という子たちが多い。彼らの行く末を見ているとホッとする。英語は習っている間よりもむしろ卒業後のその先が大事だと思っているから。幼児や小学生の内に中高のテストの結果に左右されない強靭なベースを作っておけば、その更に先に繋いでいくことが出来る。
 子どもたちが大人になるまでの間に英語に対する自信を無くすのは、圧倒的に中高時代。テストで良い点が取れる子たちは、それなのに「話せない」自分に絶望し、話せてもテストで「点が取れない」子たちも絶望する。どちらも出来ないと思い込んでいる子は更に酷い状態になる。ここで踏ん張るのはなかなか至難の技だ。

 私の教室で指導をご一緒している先生がいる。彼女は遊び心と学びのバランスの良い人で、「学ぶ人」の良いモデルだと思っている。でもそれを人に強要しない。人に「学びなさい」と言わずに「学びたいかも」と思わせる達人なのだ。その方法は様々で、しばしばテキストやワークから離れて活動している。私自身もテキストやワークを横に置いて、遊んでいる間に英語に触れる様な仕組みを作るのが大好きなのだが、彼女はそのアイデアの宝庫、遊びの泉なのだ。私が思いつかないようなゲームやアクティビティは、彼女自身がさほど意図していなくても、必ず意味がある形に仕上がっている。その成果を言う代わりに、彼女は毎回のレッスン後に淡々と子どもたちの様子を書いたレポートを提出してくれる。
「○○が揉めていたけれど私はルールで子どもたちを縛りたくないので、どうしようかと考えていたら、子どもたちが勝手に緩いきまりを作ってみんなが楽しめるようにしていました。子どもたちすごい、と思って見ていました」「○○がこんな話をしてくれました。」「彼はこのスタイルで学ぶ人なんだと思います」「○○が良いアイデアをたくさん出してくれました」「○○は自然に人に声をかけられるところがあります」

 そんな彼女のレポートを読んだ後、私はいつも素敵な絵本を読み終えたような幸せな気持ちになる。時々「揉めた」とか「泣いた」という言葉はあっても、その子たちはちゃんとその時間の中で元通りになっていて、それをただ見ている先生が「すごいな」って感心している。
 「待つ」ことが大事と言われ続けて、大人は「じゃ、待とうか」とまるでテクニックの一つであるかのように「待つ」ことに集中しがちだが、「待つ」は「一緒に考える」という意味だと思う。
私は彼女を見ながら自分自身と同じ感じを覚える。ワクワクしながら、また時には「どうしたもんかなぁ」とじっくり考えながら子どもたちを見つめる。ポジティブな目線で。そうすると子どもたちがいかにしてこの問題を解決するかが見えてくる。そして「なるほど」「たいしたもんだね」と感心して終わる。何かの功績を褒められるわけでもなく、ただ感心された子どもたちは自分たちをただポジティブな目線で見つめてくれる人のまなざしに安心する。そうやって一緒に伸びていくから不思議で素敵だ。

 そんなこんなで、私は彼女と話し合って中学生のテキストを辞めた。ワークも辞めた。学校で習っている中学英語をあらゆる形で実践と結びつけて遊ぶ中で「英語を使う」体験をレッスンの中で実現している。彼女はそういう仕組みづくりの達人なのだ。
 11月11日のレッスン前に彼女から連絡があり「次回のレッスンはポッキーの日なので、レッスン内に食べ比べしても良いですか?」と。アレルギー等の心配もあるので各ご家庭に尋ねて異論が無ければやってみましょう、と返事をした。
 彼女は見事にポッキーの日にポッキーを使った体験型レッスンをした。中学生たちはポッキーやプリッツを食べ比べながら、比較級最上級を実践の中で学んだのだ。ワークシートに書かれた子どもたちの言葉を見ながら、活きた英語の手応えを感じた。体験は何ものにも勝る。

 子どもたちは週に一度、テストの結果や試験範囲から解き放たれた体験型「実践英語」の時間を過ごす。学校や部活で数々の課題をこなし、終えても終えても次々と降ってくる課題の中で少し立ち止まって雨宿りをしながらおしゃべりする。
 他愛もないことを話し、頭のいつも使わない部分をグリグリと使い五感を使って会話を楽しむ。そんな時間はわずかだけど、中高時代を踏みとどまる力の一つになっていると信じる。そしてそれはいつか「もっと英語を学ぼう」と思った時にその子たちの翼になってくれるだろうと思う。

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