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サードプレイス考

 子どもの頃、アメリカ映画の父親に憧れていた。
何か混乱してうまく言い表せなくなった子どもが食事の途中で席を立ち、部屋に駆け込んでドアをバンッと閉める。少ししてから困った母親を目で制してゆっくり階段を上がる父。部屋をノックして「ちょっといいかい?」そこから二人ベッドに腰掛けて、その父親が子どもの言葉をゆっくり聞く。

心も身体も安全な場所

 それをふと思い出したのは、友人との語らいの中で「ありのままを受け止めてもらえる場所の必要性」を話した後。今の社会の中では、その役割を皆が押し付け合おうとしている場面をよく見る。それが学校と家庭の間のキャッチボール。
「学校でやってください」
「いや、それは家庭のことです」
 私自身も「どっちなんだろう」と考えたこともあるが、今はどっちでもないという結論に達した。きっと場所とか関係性は関係ないんだと思う。ただ、子どもにとっては心もだが身体も安全な方が良い。
 というのも、子どもたちは自分たちでサードプレイスを探しにいく。今はそれがオンライン。一例では、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)で「神待ち」と自分を受け止めてくれる人を探す女の子たちの話がある。その「神」の多くは女の子たちを自分のために利用する男性たち。彼らは彼女たちの傷を、より深く刻み込む。

わたしは不十分、努力が足りない感の継承

 子どもたちが本能的に望んでいることは、ただ「ありのままの自分を受け止めてくれること」。なぜここで「ありのまま」を強調するかというと、時代が進むにつれ大人は子どもたちに自分の夢や見栄を託すようになっているから。「子どもの幸せを考えて」子どもに重いものを背負わせる。
 それは、自分自身が同じように親や先生、社会から過剰に期待され満足させられなかった過去があるからだと考える。

 誰かに「あなたの存在自体が幸せ。あなたがいてくれて良かった。」と言われて、またはそういう気持ちを受け取って育った人は「自分はここにいて良いんだ」と信じることが容易である。
 でも常に何か結果を伴わないと喜んでもらえない場合、更にどんな結果を出しても「もっとできたはず」と言われて育った人は「自分は不十分」だと信じて大人になる。
 その「不十分」は呪縛の様に自分に絡みつき、人生を通して時々自分を突いてくる。子どもが出来た時、その苦しみから逃れる様に、子どもに自分の不十分を「十分」に変えてもらおうと考えてしまうのだ。そして自分がされたように「もっと出来るはず」と、お前はまだまだ私たちを満足させていない、というメッセージを送ってしまう。

 人の努力は自発的であると良いと思っている。何かを好きになって、もっと知りたい、もっと上手になりたい、そう思って自分で努力をすることは実は可能なことなのだ。それをただ見守り話を聞くだけで、子どもたちは伸び伸びと学ぶ。その「もっと知りたい」のきっかけをくれるのが学校だと思っている。

心のよりどころ、そこかしこ

 親が子どものことを思うあまりに干渉的になるのは自分の経験上よくわかるし、それも親心だと思っている。そして「自分は不十分だ」と信じて生きてきた親自身にも心のよりどころが必要だと思っている。ありのままの自分でも大丈夫だよ、と受け止めてくれる場所。

 冒頭に書いた様に子どもたちにとっては学校と家庭が主な活動場所なので、どうしてもそのどちらかが子どものよりどころになるべき、という話になるのだが、私が考えるのは子どもたちにとってのサードプレイス。
 角のタバコ屋のおばちゃん、縁側のおばあちゃん、そんな地域の中の誰かがいてくれたら、そして私もそうなれたら、と思っている。
親としてのプレッシャーもなく、先生としての指導も要らない。そんな何の立場でもない人が近くにいてくれて、ポロっと話した言葉をスッと受け止めてくれたら。

自分で答えを出すこと

 大人は子どもに「学んで欲しい」「気付いて欲しい」「良い人間になって欲しい」と願うあまり、子どもが答えを出す前に答えを与えようとする。でも本当は子どもも大人も、自分の中に答えを持っている。自分のことは自分が一番わかっているし、自分がなりたい像だってある。でも先にそれを言われてしまったら、考える間も無くそれを受け入れるしかない。

 でも、話している間に自分の口から出る言葉に気付かされることがたくさんある。ケンカしちゃってさ。。。と言った途端に、そんな汚い言葉使って、とか謝っておいた方が良いとか悪いのはどっちだ、とか聞かれるのではなくて、ただ聞いていたら話している間に本人が次に何をすべきか、見つけ出すもの。
 その過程をゆっくり見守る人がいる場所。自分の困りごとを、人に批判されるであろうことを安心して話せる場所があるって、どんなに良いだろう。

SNSの裁き〜時代が求めるもの〜

 時代はSNS。大人も子どもも、身近な人であろうが世界的に有名な人であろうが、自分の正義を振りかざして人を遠隔で裁くことが出来る時代。
 そんな様子を日々見ながら「これは絶対に人には言えない」と更に心の奥深くに自分の困りごとを閉じ込めていく人が、これからどんどん増えていくだろう。だからこそ、「どんな自分でも受け止めてくれる」場所。
 私はそんな場所を作りたいと思って、英語教室をしたり場作りに参加したりしている。誰かがする特別なことではなく、出来る人がそれぞれに少しずつ自分の周りにそんな場所を作っていけば、きっと社会は健康を取り戻すだろう。

 

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