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ぼくは『ハウルの動く城』によって「今」に導かれた

『ハウルの動く城』を観たのは、高校2年生のとき。一人で、そのときいちばん好きだった服を着て、映画館に行った。

 素敵な映画だ、と思った。思ったけれど、何が素敵なのか、それが何を描いているのか、当時のぼくにはなにもわからなかった。それはそうだろう、と今は思う。ぼくはまだ、帽子屋で働くソフィーだったし、カルシファーに心を守ってもらうしかないハウルだったから。

 あの街に、荒地に、何よりハウルの城に、憧れた。あの世界に行きたいと思った。同時に、あの物語が何を描いているのかを、いつか自分で知りたい、自分で考えられるようになりたい、と思った。あれ以来、『ハウルの動く城』は、いちばん好きな映画の一つだし、ぼくの憧れだった。もちろん、今も。

 大事な映画すぎて、きちんと心が整っているときに観たくて、発売されてすぐにDVDを買ったのに(特別収録版で、映画のフィルムの一コマが透明キューブに入ったおまけつき)、これまで4回ほどしか観ていない。大学を卒業してから観たときも、まだわからなかった。
でも、今なら、自分なりに考えられるかもしれない、読み解けるかもしれないと思って、DVDを観てみた。

(ぼくは、物語の「正しい」読み方、物語の「答え」はないと思っている。けれど、それでも、それが何を描いているのか、考えてみることはできると思っているし、自分なりの読み解きを形にすることはできると思っている。)

*   *   *


『ハウルの動く城』という物語

『ハウルの動く城』で描かれるのは、戦争の気配が色濃い世界。街には機関車が走り、トラムが走る、19世紀末のヨーロッパのような、でも魔法の存在する世界。

 物語は、ソフィーの住む街から始まる。彼女は父の残した帽子屋で働いているけれど、それは彼女が本当になりたかったものではない。パン屋で働く妹はソフィーに、「自分のことは自分で決めなきゃだめよ」と言う。
『ハウルの動く城』は、まず、そんな自分このことを自分で決められていないソフィーの物語だ。彼女は妹と会った夜、店に入ってきた荒地の魔女に呪いをかけられ、「おばあちゃん」になる。姿かたちが変わってしまい、家にいられなくなったソフィーは、街を出る。旅に出た、と言ってもいい。そして山で、ハウルの動く城に出会い、城を動かす火の悪魔・カルシファーに、彼と魔法使い・ハウルの契約の謎を見破ることを頼まれる。そうしてくれたら、ソフィーの呪いも解くと。

 つまりこの映画は、ソフィーが、自分にかかった呪いと、ハウルとカルシファーの契約を解く物語なのだ。

ソフィーの呪いの物語

 では、ソフィーにかかった呪いとはどんな呪いなのか。

 それは言うまでもなく、「おばあちゃん」になってしまう呪いだ。老いる呪い。それは、こんがらがった呪いだ、とカルシファーは言う。

 荒地の魔女にかけられた呪いで、老婆になったソフィーは、街を去り、山を目指す。日常を離れ、非日常へ、境界的な場へ赴くのだ。

 でも、ソフィーが街をあとにするのは、ただ呪いをかけられたから、だけではないだろう。彼女は、帽子屋として働いているときから、周りに馴染んでいなかった。なりたいものになれず、そこは自分の場所ではなかった。彼女はもとから、馴染めない、居場所がない、言ってしまえばアウトサイダーな、境界的な要素を持っていた。
 呪いによって老婆というスティグマを与えられたソフィーは、山(=街の外、境界領域)へ赴き、カブ頭のカカシ・カブから杖(=旅人など、アウトサイダー・境界的な人々の象徴)を得て、そして共同体に属さない人の最たるものである「魔法使い」ハウルの城で、掃除婦として働くことになる。自らを魔女だ、と冗談を言いながら。老婆になった彼女は、帽子屋で働いていたときよりも、いきいきしているように見える。

 つまりこの呪いは、ソフィーの内面を多分に反映しているのだろう。自分のことを自分で決められない、そしてその状況を諦め受け入れてしまっている、若い彼女の老性。

 この呪いは、一息に解けるわけではない。しかし、老婆の姿が、若い姿に戻ることがしばしばある。

 それは、ソフィーが、ハウルに対して恋心を抱くときだ。呪いをかけられてから、初めてソフィーの見た目がはっきり若返るのは、彼女がハウルからある言葉を投げかけられたとき。ソフィーがハウルのお風呂の魔法薬の位置をいじり、ハウルの髪の色が金からオレンジになってしまい、絶望して嘆くハウルは「美しくなければ生きていたって仕方ない」と言う。ソフィーはそれを聞き、「私なんか美しかったことなんて一度もないわ」と言って、物語の中で初めて感情的に声を荒らげ、泣く。城の外で泣く彼女は、背筋が伸び、顔の皺も減り、老婆ではなく中年くらいに見える。美を尊ぶハウルと、自分のありようを比べて、絶望を抱くソフィーは、ハウルに惹かれているのだ。
 次に彼女が若返るシーンで、彼女の見た目は、はっきりと若者に戻る。魔法使い・ハウルを戦争に導引しようとする、ハウルの師・サリマンのもとを訪れたソフィーは、ハウルはわがままで臆病だけど、まっすぐでただ自由に生きたいだけだと言い、彼をかばう。彼女がきっぱりそう言い切るとき、ソフィーは若い彼女に戻り、サリマンに「ハウルに恋をしているのね」と言われる。
 その後も、ハウルに愛していると言うとき、行かないでと言うとき、ソフィーの見た目は若くなる。
(彼女の見た目が細かく変化する場面は、だから、彼女の内面の変化が強く読み取れる。例えば、ハウルが城を改造して、ソフィーの部屋を作り、彼女の故郷の家と城を繋げたとき、ソフィーの見た目は一瞬若返る。しかし帽子屋のときと同じ作りの部屋を見て、「掃除婦にはぴったりの部屋ね」と言って、老いる。これは、ハウルが家に自分のための場所を用意してくれた嬉しさと、自分がただの掃除婦でしかないことを受け入れる落胆を表していると読むことができるだろう。)

 老婆と若者の見た目を行き来するソフィー。しかし、ハウルが戦争の空襲から、そしてサリマンの手下からソフィーを守ることを決意したことで、彼女ははっきり、ハウルが自分を想っていることを知る。それから彼女は、もう、老婆の姿にはならない。ソフィーを守ろうとする、守るために力を振るい戦おうとするハウルに対して、「あの人は弱虫がいいの」と言って、力を振るいすぎてハウルが魔王にならないよう、カルシファーとの契約を解こうとする。

 もう老婆の見た目にはならないソフィーは、呪いを解いたと言っていいだろう。自分で自分のことを決められず、その現状を受け入れ、諦めてしまっていた、ソフィーの呪い。ハウルに恋することで、彼を必死に救うことで、彼と生きることを決めることで、ソフィーは呪いを解くのだ。この物語は、ソフィーの成長譚として読むことができる。

ハウルの契約の物語

 ここまでソフィーの呪いについて考えてきた。けれど、この物語にはもう一人、ソフィーと対になる重要な人物がいる。タイトルにもその名が入っている、ハウルだ。彼も、一種の呪いにかかっている。火の悪魔・カルシファーとの契約だ。

 そもそも、ハウルとはどのような人なのか。物語の始まりの時点でのハウルは、動く城の主、そして美女の心臓を奪う魔法使いとして街で知られている。でもそれは、一人歩きした噂に過ぎない、もしくはただの比喩に過ぎないことは、すぐに知れる。彼は街で兵隊にちょっかいをかけられるソフィーを助ける。そして、自分の城に突然現れ、掃除婦として働くと言い出したソフィーを受け入れる。

 ソフィーが城で働き始めてから、ハウルがどんな人物なのかがわかってくる。強い力を持った魔法使いで、荒地の魔女から心臓を狙われていたり、魔法学校の師・サリマンから、国の戦争に協力するよう迫られていたりする。しかし彼は、自由に生きたい。そのために、いくつもの名前を持ち、彼を追う人々から逃げ、城で暮らしている。

 しかし、それはハウルの一面にすぎない。ソフィーがハウルと暮らすうちに、ハウルの内面が、徐々に明らかになってくる。ソフィーの掃除のせいで、髪の色が美しい金からオレンジに、そして黒になってしまったとき、ハウルは絶望し、寝込む。部屋に見舞いに来たソフィーに、ハウルは、行かないで、と告げる。部屋には、荒地の魔女よけの大量のガラクタ。わがままで臆病な、ハウルの内面。それは、子供そのものだ。ハウルの部屋も、大量のおもちゃに囲まれた、子供部屋そっくりだ。ハウルについて、ソフィーはサリマンに、まっすぐで、自由に生きたいだけだ、と言う。

 そんなハウルが、火の悪魔・カルシファーと結んでいる契約。それはどんな契約なのか。物語の中で、契約内容ははっきりとは描かれず、その意味が明言されることもない。それでも、それはいろんなふうに表現される。
 荒地の魔女がソフィーに仕掛け、ハウルに届けた呪いで、彼は、汝、流れ星を捉えし者、心なき男、と言われている。ハウルの師・サリマンは、ハウルは悪魔に心を奪われた、と言う。そして、心をなくしたのに力があるのは危険だ、と。カルシファーはソフィーに、早く契約の秘密を暴いてほしい、時間がない、と言う。時間がなくなるとどうなるのか。力を使いすぎたハウルは、魔王になるのだ。

 ハウルとカルシファーの間に、どのような関係があるのか。それは、物語の終盤に描かれる。カルシファーは、ハウルの心臓を持っているのだ。そして、そうなった経緯は、ソフィーがたどり着いたハウルの過去で明らかになる。ハウルは、子供のころ、空から降ってきた流れ星を受け止めた。そして、それを飲み込んだ。その結果、心臓が体の中から出てきた。それの流れ星が、カルシファーだ。

 一度、契約内容をまとめてみる。ハウルは流れ星としてやってきたカルシファーを受け入れ、心臓を渡す。火の悪魔・カルシファーに、心臓を差し出したのだ。

 契約において、一人が何かを差し出せば、彼は見返りを受け取るはず。ハウルが受け取った見返りとは、何か。

 力、ではないだろう。(少なくとも、力が目的ではなかっただろう。)師・サリマンは、ハウルは才能溢れる魔法使いだったが、悪魔との契約により心を失った、と言う。カルシファーとの契約の前から、ハウルは力を持っていた。

 ハウルが契約によりなくしたと思われるものがある。彼は、「心なきもの」「心を奪われたもの」として描かれる。これは、心臓を差し出した契約そのものを表している。心臓を差し出す、つまり、心を差し出したのだ。それによってハウルが得たものは何か? ハウルの望みはなんだったのか?

 ハウルの望みは、ずっと、自由に生きることだった。そして、ハウルはカルシファーに心臓を差し出した。その心臓はどうなったか? それは、失われてはいない。カルシファーは、それを食べてしまってはいないのだ(カルシファーの力を借りたいソフィーが、彼女の髪の毛を差し出したときには、カルシファーはそれを食べ、強い力を発揮した)。

 カルシファーは、ハウルの差し出した心臓を、守っている。ハウルの心を守っている。ハウルが、自由に生きるために。
 では、カルシファーが守っているハウルの心とは、どんな心なのか。当然それは、ハウルとカルシファーの契約が結ばれたときの、子供のときの心だろう(荒地の魔女は、カルシファーを見て、きれいな火だねぇ、と言う。それは、子供のハウルの、きれいな心を宿した火なのだ)。

 もう一度、ハウルとカルシファーの契約についてまとめてみる。子供のころ、ハウルはカルシファーに、心臓を、心を差し出した。自由に生きるために。心臓を差し出されたカルシファーは、それを、子供のままのハウルの心を、守っているのだ。

 城を動かすのがハウルではなくカルシファーなのも、それが理由だ。ハウルの動く城は、おおよそ城の要素に乏しい。大砲に見えるものもあるが、それが使われることはない。城壁も尖塔もなく、城が戦う場面はない。それは、家に近いだろう。それでもあれは、ハウルの「城」なのだ。城とは何か。それは、何かを守るものだ。ハウルの動く城は、ハウルを、その子供のままの心を守っている(繰り返すが、ハウルの部屋は、完全に子供の部屋だ)。そして、その城を動かすのは、守り手である、カルシファーなのだ。

 ハウルの子供性。その子供性を、そのままの状態で守り続ける契約。この契約の秘密を、ソフィーが見破り、解くことができなければ、どうなっていたのか。カルシファーは、ハウルが力を使いすぎると、「戻れなくなる」と言う。つまり、子供のまま力を振るい続けると、魔王になるのだ(これが契約のもう一つの意味だろう。カルシファーは心臓を得て、ハウルは魔王の力を得る。まさに、悪魔との契約だ)。

 しかし、実際はそうはならず、ソフィーは契約の秘密を見破ることができた。それは、ソフィーだったからできたのだ。ソフィーだからこそ、壊れた城の扉を抜けて、その向こうに隠されたハウルの過去にたどり着くことができた。ソフィー自身が、老性という呪いを解き、きちんと「今」にたどりついたから。きちんと「今」にたどり着き、大人になり、ハウルを正面から想うことができるようになったソフィーだからこそ、子供のまま時が止まってしまっているハウルを、「今」に導けるのだ。

 契約が解かれることなく、ハウルが魔王になる道。そして、契約が解かれ、ハウルが心臓を、つまり心を取り戻し、きちんと「今」にたどり着く、つまり大人になる道。その二つの道を暗示しているのが、ソフィーがハウルの部屋で見た、二つの洞窟だろう。王宮でサリマンに会い、ハウルがソフィーたちを追手から逃した夜、ソフィーはハウルが帰ってきたことに気づき、彼の部屋を覗く。そこには、二つの洞窟があった。その片方に、人ではない姿となったハウルがいる。このときハウルは、そちら側の道を、魔王になる道を進もうとしていたのだ(そこで、呪いを解きたい、愛している、と言うソフィーに、ハウルは「もう遅い」と言う)。

 ソフィーに導かれ、ハウルは子供のときに差し出し、子供のときのまま守られていた心を、自分の中に戻す。大人になった自分の体に。ずっと子供だったハウルは、「今」にたどり着き、きちんと大人になった。この物語は、ハウルの成長譚でもあるのだ。

「今」にたどり着く物語、そして、その意味

 物語の全貌が、これで見えてきた。

 ソフィーの呪い、ハウルの契約。ソフィーの老性、ハウルの子供性。それぞれがそれらを解き、克服し、「今」にたどり着く。きちんと、大人になる。

 二人の変化が見て取れるのが、髪の色だ。ソフィーが老婆の姿になったあと、呪いを解き若い姿に戻っても、灰色の髪の色は戻らない。ハウルはそれを、星の色に染まっている、きれいだ、と言う。一つの成長の証と見て取れるだろう(その意味についてはまたあとで考察する)。ハウルも、はじめは美しい金だった髪色が、ソフィーに風呂場の魔法薬の順を入れ替えられてしまったことで、黒髪になる。そしてそれは、契約が解かれたあとも金に戻ることはない。カルシファーに心臓を差し出した、子供のときのハウルの髪が黒かったことを考えると、この黒髪が、ハウルの元の髪色だろう。ソフィーと出会い、ハウルは、素の自分に、本来の自分に、「今」にたどり着けたということが見て取れる。

 この物語は、こんなふうに表すことができるだろう。

 ソフィーとハウルの、成長譚。この物語は、二人が「今」にたどり着く様を、成長する様を、きちんと大人になる様を描いている。そして二人は、「今」出会うのだ。

 さらに考察を進めたい。

 きちんと大人になる、とはなにか? 二人は、どんな人になったのか? この物語が描く、成長とはなにか?

 彼らが、これからどう生きていくのか、見てみたい。

 ラストシーンでは、城が飛び、ハウルの弟子のマルクル、サリマンの犬だったヒン、荒地の魔女が城の庭で遊び、ハウルとソフィーが城から突き出した物見のようなところでキスをしている。

 子供で魔法使いのマルクル。動物であり、王宮の権力者に背を向けたキン。過去荒地に追放され、共同体の外で生きてきた荒地の魔女。王宮に背いた魔法使い・ハウル。街を去り、帽子屋としてではなく、魔法使いたちとともに生きていくソフィー。

 ハウルの動く城で共に生きる全員が、人の共同体の外側にいる、アウトサイダー、境界的な者たちなのだ。ハウル自身、「我が家族はややこしいものばかり」と述べる。物語終盤までソフィーと行動を共にした、カブ頭のかかし、カブも、実は呪いをかけられた隣国の王子であることがわかる。

 この物語では、主要な登場人物として、共同体の中で「一人前」と言われるような成人の男性が描かれない(そのような完全に権力側な属する人間として象徴的に描かれるのが、街でソフィーにちょっかいを出す「兵士」、そして王宮でソフィーたちが出くわす「王」であることは示唆的だ)。ハウルの師であり、彼を王宮に協力させようとするサリマンですら、「魔法使い」、つまり共同体から見ると境界的な人間だ。

 ソフィーが街を去るところから始まるこの物語は、共同体の外側にいる人、排除された者、境界的な人々を描いているのだ。ソフィーも、ハウルも、それぞれが、境界的な人々の象徴的な存在だと言えるだろう。排除されるソフィー、自ら背を向けるハウル。

 王宮=権力側は、彼らに、二つの選択肢を提示する。その力を王宮のために使うか=権力に従うか、さもなければ徹底的に排除されるか。サリマンは、そこで権力に協力することを選んだ境界的な人間だ。ハウルは、そうしない。自由に生きたいから。そうすることで、ハウルやソフィーは、サリマンの手下から、強い追及を受ける。

 逆にソフィーやハウルは、何者も排除しない。ハウルの心臓を狙っていた荒地の魔女、サリマンの犬だったヒン。さらに、のちに敵国の王子であることが判明した、カブ。ハウルの動く城は、そんな緊張関係、敵対関係にあるような者ですら受け入れる。他者を、自分たちとは違う人を、否定しない。

 王宮におもねらずに生きることを選んだ、ハウルとソフィー、その家族たち。彼らは、そうすることで、自由に生きることを選んだのだ。

「今」にたどり着き、きちんと大人になったソフィーとハウル。それは、境界的な人々が、自由に生きられるようになることでもあるのだ。

「星の色」に染まったソフィーの髪の色。それは、境界的な者としてのスティグマ、徴だろう。「老性」という、共同体から距離を置く証(「老性」の境界性は、「姥捨山」を思い出すと、容易に理解できる)。その名残を受け入れる、ソフィーとハウル。この物語で「星」は印象的に、何度も出てくる。流れ星としてやってきたカルシファー。星の海。そして、ソフィーの髪の色。「星」は、宇宙、つまり「外」の象徴だ。

 まとめてみる。これは、呪いをかけられたソフィーが、ハウルとカルシファーの契約の秘密を探り、そうすることで自分も呪いから解かれ、ハウルも救う物語だ。それは、「老性」の呪いにかかったソフィーと、「子供性」の契約に縛られたハウルが、それぞれに成長し、「今」にたどり着き、きちんと大人にたどり着くことを意味する。さらにこれは、境界的な人間としての彼女たちが、権力に、イデオロギーに、それらが規定する「正しさ」に縛られず、自由になる、自由に生きられるようになる物語なのだ。

補遺、比較

 補足的に、二つの物語と比較して考察してみる。

 まず、2022年に公開された『すずめの戸締り』。物語終盤で、成長したすずめは自らの故郷を訪れる。津波で破壊された家の近くで扉を見つけ、彼女はそれを抜ける。扉の向こう側は過去。そこですずめは、子供のころの自分に出会い、彼女に、母の作ってくれた椅子を渡す。子供のころの彼女が生きていけるよう、成長できるよう、「今」にたどり着けるよう導くのだ。扉、過去、成長、「今」。このシーンは、『ハウルの動く城』のソフィーを、強く彷彿とさせる。「今」にたどり着く、成長物語。

 もう一つ、「城」という要素で繋がった、『天空の城ラピュタ』。天空の城、ラピュタを見つけることを夢見る少年パズーは、空から降ってきた少女シータと出会い、彼女を救うため、旅に出る。そして、ラピュタを見つける。その後パズーは、ラピュタをあとにし、シータとともに、日常の中に帰っていく。
『ハウルの動く城』で、ソフィーは、全てが終わった後、故郷の街には帰らない。ハウルとともに、城で暮らすのだ。
『天空の城ラピュタ』が公開されたのが、1986年、『ハウルの動く城』が公開されたのが2004年。『ハウルの動く城』が公開されたとき、日常はもはや、成長して帰りたい場所ではなくなっていたのかもしれない。非日常の中で生きていくという選択。

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ぼくは『ハウルの動く城』によって「今」に導かれた

 高校2年生のとき、ぼくは『ハウルの動く城』が描いているものが、まったくわからなかった。けれど、わかりたくて、読み解きたくて、憧れた。

 あのとき見たのと、まったく同じ映画を、今、ぼくは見ている。この、物語という扉を通して、あのときの自分を思い出している。

 帽子屋で働くソフィーで、カルシファーに心を守ってもらうしかないハウルだったぼくは、たぶん、『ハウルの動く城』のようないくつもの物語に導かれて、大学院で文学を研究して、「今」も、物語に関わっているのだ、と思う。

読んでいただいてありがとうございます。書いた文章を、好きだと言ってもらえる、価値があると言ってもらえると、とてもうれしい。 スキもサポートも、日々を楽しむ活力にします!