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『千と千尋の神隠し』――この壊れた世界で、ぼくたちはどう生きるか

 最近の夏は、恐ろしく暑い。というか、もはや熱い。
 
 でも、そのたじろぐような熱さが、うだるような暑さ、と思える程度まで慣れてきた頃、ぼくは、夏が来た、と思う。
 
 ぼくは夏が好きだ。あけっぴろげな明るさ、輪郭のくっきりとした濃い影、そして、いろんな夏を思い出させる、セミの声。
 
 夏は、ぼくにとって、母の実家の宮崎に帰る季節だった。小学校の夏休み、通っていた塾の夏期講習が終わり、明日飛行機に乗る、という日の帰り道の、どうしようもない高揚。空港の、ついに旅が始まった感じ、機内で見たポケモンの映画。宮崎の祖父母の家で、何も予定がない日に足しげく通った、近所の田中書店と、BOOKOFF。
 
 夏は、ここではない場所に行く季節だった。大学に入ってからも、社会人になってからも、一人旅をした。
 
 そんな夏に、ここではない、「あちら側」に行く映画『千と千尋の神隠し』を観てみた。
 
   ***
 
 初めて『千と千尋の神隠し』を観たのは、中学生のときだったと思う。当時ぼくは、この映画を、主人公の千尋が小学生だったこともあって、たぶん「自分の物語」として観ていなかった。
 
 でも、強く覚えていることがあって、それは、夏に宮崎に帰る飛行機の機内誌に載っていた、『千と千尋の神隠し』を読解する記事で、そこには当時のぼくが思いもつかないような観方が書かれていた(カオナシは何を描いているか、という話だった)。物語は、そんなふうに読むことができるのか、と思って、いろんな物語が何を描いているのかを、自分で読み解きたい、とぼくが思うようになるのに、影響を受けた出来事だったと思う(その記事の読解は、今ぼくが考えている読解とは違ったけれど)。
 
 今、夏に、『千と千尋の神隠し』を観てみて、そして、自分で読み解いてみた。

   ***


千尋が迷い込む「あちら側」

 
 この物語は、小学生の千尋が、引っ越してきた(田舎の)街で「あちら側」に迷い込んで、いろいろな出来事を経験して、帰ってくる物語だ。
 
 千尋は、どこで、何と出会い、どんな経験をして、帰ってくるのか? そして、それは、何を表しているのか?
 
 まずは、彼女が迷い込む「あちら側」とはどういう場所なのかについて、考えてみる。
 
「あちら側」とは何か。別の言い方をすると、それは異界であり、あの世であり、神々の世界であり、ニライカナイであり、蓬莱山であり、常世だ。
 
 古来、世界のあらゆる場所で、ここではない「あちら側」、異界は想定されてきた。
 
 それは、荒唐無稽なことでも、ただの空想でもない。実際に、現実に異界はあったのだ。大昔の村のことを想像してみる。その頃の人々にとって、村の外は、危険な場所だった。森には、獣が出る。山は、迷い込んだら出てくるのが難しい。川は、簡単には渡ることができない。海の向こうには行きようがない。彼らにとっての「こちら」、日常である村の中と対比して、「あちら」、非日常である村の外は、容易には行けない場所、危ない場所、遠く離れた場所だった。森、山、川、海、それを挟んだその向こう側は、まさに「あちら側」、彼らにとって「異界」だったと思う。
 
 彼らの手の届かない場所、あちら側、異界。それは、危険な、でも、こちら側では手に入らない、恵みをもたらしてくれる場所でもあった。獲物としての動物や木の実、道具の材料としての木や石。彼らは異界に、「力」を感じた。そこに、「命の源泉」を見た。人は死んだらお山に帰る。そして、祖先の眠る山から、もしくは海の向こうから、また命の力がこちらにやってきて、新たな命が生まれる。それは、神がもたらす力だ。
 
 良くも悪くも、過剰な力がある、「あちら側」。それは、人に害をもたらす危険な力でもあり、命をもたらす価値ある力でもある。そういう力にあふれた場所。一般的な「あちら側」観念、異界観念は、こんなようなものだと思う。
 
『千と千尋の神隠し』においても、千尋が迷い込むのが「あちら側」(厳密に言うと、こちら側とあちら側の境界領域)であることが、繰り返し描かれる。父が運転する、千尋を乗せた車は、市街地から、「山」の中に入る。山に入ってすぐの道のわきには、「神々の住処」としての「祠」が描かれる。トンネルの手前には石の像があって、これは境界の神、「賽の神」だろう。トンネルは、明らかにこちらとあちらを隔てる境界で、さらに千尋たちは、トンネルの向こうで、「川」を渡る。
 
 そして、千尋は「あちら側」に迷い込む。それは、「こちら側」からいなくなること。まさに、「神隠し」だ。
 

千尋が働く「油屋」


 あちら側に迷い込んだ千尋は、ハクに助けられ、湯婆婆が経営する「油屋」で働くことになる。豚になってしまった両親を助けるために。
 
 油屋は、どのような場所か。それは、神々が訪れ、湯に浸かり、疲れを癒やして、帰っていく場所だ。その神々は、どこから来るのか? それは、千尋と同じ川を渡った向こうから。つまり、神々は、「こちら側」の世界にいる神々だ。川の神。山の神。土地神。彼らは、「こちら側」に力をもたらし、消耗し、汚れる。彼らが、癒され、穢れを落とし、また神々の力を励起させるために、「あちら側」の入り口にある油屋で湯に浸かり、そしてまた「こちら側」に帰ってくるのだ。名のある川の主の様子が、まさにそれを物語っている。腐れ神として油屋を訪れた、汚れきった神は、千尋の働きによって、癒やされ、本来の姿を取り戻し、帰っていく。
 
(江戸時代、「湯屋」は、遊女がいる場でもあった。油屋で働く女性たちの中に、白衣に緋袴という巫女の格好をした人たちがいるのは、このこととも符合する。巫女は、神に奉仕する、神のための遊女でもある。)
 
 そんな、神々をもてなすための場を、湯婆婆が「経営」していることは、とてもアイロニカルだ。人の世、現代社会を象徴する、資本主義、貨幣経済。それが、油屋にも入り込んでいるのだ。神々の世界を侵し始めている、資本主義。
 
 その油屋で、千尋は働くことになる。ハクに言われた通り、「ここで働かせてください」と訴え続け(湯婆婆は、働きたい者は働かせなければならないという契約に縛られている)、はじめは心細く、仕事もうまくいかないけれど、先輩のリンに支えられながら、腐れ神を迎える仕事では、穢れを落とし、名のある川の主本来の姿を取り戻させ、成果を出す。
 
 資本主義的な、「油屋」という会社で、千尋は働き、成長し、成果を出す。
 
 それは、映画の中で、決してネガティブな印象では描かれていない。仕事、ひたむきに働くこと、そこでの成長、成果。
 
 けれど、そこには負の側面も描き出されている。千尋は油屋で働くために、湯婆婆と契約をする。そのとき、千尋は湯婆婆に、名を奪われる。「获野千尋」という名が奪われ、一文字だけ、「千」という名が残される(「获」の字は、日本で使われることはほとんどなく、これは千尋が、「荻」という字を書き間違えたのではないかと考えられる)。
 
 千尋が、油屋で働くため、湯婆婆に名を奪われること。これは、「資本主義経済において、会社で働くこと」のはらむ危険性を、強く表している。
 
 人のアイデンティティは、生まれ育ち、家族、学校、友人、仕事、趣味、そういったものすべてを内包している。その人のあらゆる内面や経験や関係性が、その人を作っている。「名」は、それを象徴している。
 
 その、「名」が奪われること。「千」になるということ。それは、仕事の、会社の求める者になるということ。「名」を、アイデンティティを奪われ、会社の求める顔だけを与えられる。「名」を奪い、一部だけ残した名を与える、働くための契約。それは、資本主義経済において、会社で働くことのはらむ危険性、アイデンティティを奪われ、その会社に所属していることだけがその人のアイデンティティになってしまう危険性を表している。
 
 千尋も、自分の本来の名を忘れ、自分のことを「千」だと思いそうになる。しかし、ハクの助けによって、彼女は自分の名を思い出す。「千尋」という名。ハクはそれを、大事にするように言う。千尋は、油屋にいながら、自分の名を忘れない。アイデンティティを失わない。
 
(千尋が自分の名を思い出すことができた理由として、そもそも名を奪われた契約時に、本来の名前を書き間違えたために、契約の効力が弱かった可能性も考えることができるだろう。)
 
 

油屋を訪れるカオナシ

 
 そんな油屋に、そしてそこで働く千尋の前に現れるのが、カオナシだ。
 
 カオナシとは、なんなのか?
 
 カオナシ、顔がないことを、どう考えるか。カオナシは、はじめ、言葉を話すことができない。しかし、カエルを、その後、油屋の従業員たちを飲み込んでいき、はっきりと言葉を口にするようになる。
 
 カオナシは、まさに、顔がない、自分がないのだ。湯婆婆に名を奪われた千尋と違い、カオナシには、はじめから、顔がない。自分というものを、持っていない。だから、他者を取り込むことで、仮初の自分を作っていく。
 
 そんなカオナシが、油屋に、資本主義経済の場に入り込むと、どうなるのか。
 
 カオナシは、千尋に挨拶をされ、油屋に招き入れられてから、千尋に執着するようになる。そして、千尋を喜ばせようと、彼女が欲していた薬湯の札をあげたり、砂金をあげたりしようとする。そうやって、千尋の気を引こうとする。
 
 それはまさに、自分がない中で資本主義経済に飲み込まれた者の末路だ。自分のやりたいこと、やるべきことがない中で、つまり自分がない中で、欲望に飲み込まれ、金で、欲しいものを得ようとする。それ以外のやるべきことを知らない。
 
 生み出した砂金で、油屋で豪勢なもてなしを受け、カエルを、従業員たちを喰らい、資本主義的なあり方を内面化し、千尋を求めるカオナシ。そんなカオナシについて、千尋は、「あの人油屋にいるからいけないの。あそこを出た方がいいんだよ」と言う。
 
 カオナシ。顔がない、自分がない、アイデンティティが確立されていない者。そういう人が貨幣経済、資本主義経済に飲み込まれると、欲望の権化として暴走することになるのだ。
 
 カオナシは、千尋が川の主からもらったニガダンゴを食べさせられ、すべてを吐き出す(それは、神の力によって、人の、資本主義的な力が浄化される様だろう)。そして、千尋に連れられて、湯婆婆の双子、銭婆のところへいき、そこに留まる。油屋の近くから、電車で海を渡り、さらに奥まで行ったそこは、より「あちら側」に近い場だ。そこでカオナシは、糸紡ぎを、そして編み物をする。資本主義的な場ではなく、職人的な場に身を置いて(このことについてはまたあとで補う)、カオナシは生きていくことになるのだ。
 
(「あちら側」の世界で、顔を、自分を失う人たちが他にもいる。それは、千尋の両親だ。代金を支払わずに食事をした(つまり契約に反した)彼らは、豚になり、他の豚との見分けがつかなくなる。自分を失うのだ。この世界において、体が透けて、顔がないものたちが、たびたび描かれる。彼らは、死者だろう。この世界において自分を失うことは、死を意味する。)
 
 

電車について


 千尋が、カオナシたちと一緒に乗った電車。この電車はなんなのか。
 
 千尋は、ハクが銭婆から盗んできたハンコを返すため、銭婆のいる「沼の底」に電車で向かう。電車は、海を渡り、「あちら側」の世界を奥へと進む。
 
 まさに、「あちら側」の奥へと進むのだ。「こちら側」、現世から離れた、異界の方へ。命の源泉に近いところへ(ニライカナイも、蓬莱山も、常世の国も、海の彼方にある)。
 
 この電車について、油屋で働く、千尋を助けてくれる釜爺は、「昔は戻りの電車があったんだが、近頃は行きっぱなしだ」と言う。その意味するところは、輪廻転生的な力の弱まりだろう。
 
 昔は、命は、「あちら側」から「こちら側」へやってきて、そして「あちら側」へ帰っていった。そしてまた、「こちら側」へやってきていた。そう信じられていた。今は、その命の循環は、もはや信じられていない。人は死ぬ。けれど、その命が、また「こちら側」に戻ってくることはない。一方通行なのだ。
 
 一方通行の電車。それは、輪廻が信じられなくなったこと、「あちら側」の力が、人々に対して持つ意味が弱まったことを表している。これは、油屋を資本主義的な力が侵していることとも連動する。「こちら側」にはない、神的な力、「あちら側」の力の、弱まり。
 
 その電車に、千尋は乗る、戻ってこられなくなる危険を犯して、「あちら側」に、ある意味での死の世界に近づくのだ。
 
 そしてそこには、銭婆が住んでいる。
 
 

湯婆婆と銭婆、人の力と契約の力と魔法の話


  銭婆は、油屋を経営する湯婆婆の、双子の姉だ。
 
 まずは、湯婆婆について。彼女は、油屋を「経営」している。従業員と「契約」を結び、差配をする。まさに、油屋という会社のトップだ。彼女が振るう力は、経営の力、資本主義的な力、そのものだろう。
 
 しかし、同時に、湯婆婆は魔法も使う。
 
 このことは、大事なことだ。そもそも、湯婆婆は従業員と契約を結ぶ際、魔法を使う。千尋を油屋で働かせることにしたとき、湯婆婆は、魔法の力で千尋の名を奪う。契約書から、「获」「野」「尋」の文字を魔法で奪い、千という名にする。つまり、「契約」の力は、魔法の力でもあるのだ。
 
 契約と魔法の符号は、他にもある。魔女である銭婆の大事なものは、ハンコ、魔女の契約印だ。印鑑とは契約を結ぶためのもの。ここでも、魔法とは契約であることが仄めかされている(そもそも、魔法に契約が必要とされるということは、すんなり受け入れられることだと思う。呪文を詠唱すること。それは、「あちら側」の力を借りる「契約」を結ぶことだろう。悪魔と契約を結び魔法の力を得る話も枚挙にいとまがない。また、その物の「真名」を口にすることでその物を、その物の力を統べることができることは、その物の「印鑑」を持っているイメージにつながるだろう)。
 
 魔法とは「あちら側」の力だ。そして、資本主義的な力は、「こちら側」の力。その二つは、「契約」を中心に、表裏一体のものとして、この映画の中で浮かび上がってくる。
 
 それは、経営者である湯婆婆と、魔女である銭婆が双子であることからも、見てとれる。銭婆は、自分と湯婆婆は二人で一人前だと言う。湯婆婆は、銭婆の大事なハンコを奪おうとする。表裏一体、切り離せない力。
 
(「こちら側」で、「あちら側」の力が信じられなくなり、資本主義的な力が暴走する今。その現状に対して、この二つの力は表裏一体で、切り離せないものだという描き方は、とても示唆的だ。)
 
 そして、銭婆。彼女は、沼の底という駅に、油屋よりもさらに「あちら側」に近い場所に住んでいる。電車で、海を渡った先。
 
 千尋が訪れる彼女の家は、まさしく、魔女の家だ。様々な素材。糸車。手作りらしきケーキ。
 
 カオナシの読み解きのところでちらっと書いたが、千尋と一緒に銭婆の家を訪れたカオナシは、糸紡ぎを、編み物をして、銭婆にその手先を褒められる。そして銭婆は、カオナシに、「おまえはここにいな。私の手助けをしておくれ」と言う。
 
 職人の、弟子入りだ。ここでは、職人の手仕事に、「あちら側」の力が重ねられている。古来、手仕事によってものを作り出す、価値あるものを産み出す職人は、「あちら側」の力を持つとされてきた。カオナシは、油屋=資本主義的な場、「こちら側」の違かの支配する場ではなく、魔女の家=「あちら側」の力に満ちた、職人的な場で生きた方がいいのだ(ちなみに、千尋を助け、彼女が銭婆のもとを訪れるのを助ける釜爺も、油屋で働きながら、職人的な人だ。そして、四十年前の電車の切符を持っている、つまり旅人だった、境界的な人でもある)。
 
(東洋と西洋という二項対立も、ここでは否定されている。湯婆婆は、油屋という純和風の場を営みながら、湯婆婆の部屋は、洋風だ。彼女は宝石のついた指輪をつけ、身につけているのも洋服。そもそも、「あちら側」は、洋の東西を問わず、世界中の民話で見られる。この物語の中で、二項対立は、描かれた上で、解体されていく。)
 
(「食」の観点でも、二項が描かれている。食は、生きるのに不可欠でありながら、消費・快楽的な側面も持っている。千尋がハクからもらった丸いもの。おにぎり。両親が食べる中華風の料理。カオナシの食事。)
 
 

ハク


  もう一人、この物語には、重要な人がいる。あちら側を、油屋を訪れた千尋を助ける、ハク。彼は何者なのか。
 
 ハクは、油屋のある場所に、「あちら側」に迷い込んできた千尋がやっていけるように、こちらの食べ物を食べさせ、油屋で働けるように手助けをする。千尋にとって、ハクは味方だ。
 
 けれどハクは、油屋の従業員たちからは「ハク様」と様付けで呼ばれながら、千尋の面倒を見てくれる油屋の従業員・リンから、「湯婆婆の手先」と言われる。油屋という会社の中で、「トップに尻尾を振る犬」というような扱いだ。
 
 ハクは、少し前に油屋にやってきて、湯婆婆に弟子入りして、彼女から魔法を学んでいるという。ハクは、何をしているのか? ハクの目的はなんなのか?
 
 ハクの正体は、物語の終盤で、千尋によって明かされる。思い出させられる。彼は、千尋が小さい頃に溺れた川の神、溺れた千尋を助けた、ニギハヤミコハクヌシだった。
 
 そのコハク川は、マンション建設によって埋め立てられてしまったという。つまり彼は、「こちら側」、現世で、既に死んでいる。彼は、現世で死んだ神で、死んで「あちら側」にやってきたのだ。
 
 そんなハクが、油屋で、湯婆婆のもとで、「魔法」を学ぶ理由。
 
 その目的は、ある意味での、人への復讐と考えることができるのではないか。復讐という言葉が強すぎるなら、彼らに負けない力を手に入れるため。ハクは、人の手によって滅ぼされた自然だ。彼は、湯婆婆のもとで「魔法」の力を得て、滅ぼされない力を得ようとしているのではないか。
 
 この、ハクが学んでいる「魔法」の力は、資本主義的な力と、表裏一体だったことが思い出される。だからこそ、ハクは、「魔法」を学ぼうとしながら、油屋という場で、トップ・湯婆婆のもとで、経営の場で働いているのだ。
 
 しかしハクは、自分の名を忘れている。自分が何者だったのかを、自分のアイデンティティを、そして、自分の目的を、忘れているのだ。油屋で、湯婆婆のもとで働くことで、湯婆婆との契約によって、名を奪われて。力だけを求めたハクも、結局、油屋という資本主義の場で、自分を見失ってしまう。
 
 湯婆婆の命令で、銭婆のハンコを盗み出し、死にかけるハク。それを、千尋が救う(ここでも、千尋はハクにニガダンゴを食べさせ、ハクが飲み込んだハンコを、湯婆婆が仕込んだ虫と一緒に吐き出させる。ニガダンゴの力、神の力で、ハンコを盗んだこと=契約をせずに力を得ようとしたことや、虫=呪い的な契約を、浄化する)。そして千尋は、ハクの正体を、思い出させる。ハクは、自分を取り戻す。
 
 自分を取り戻したコハクは、千尋と一緒に「こちら側」に戻ることはできない。彼はもう、死んでいるから。けれど、自分を取り戻した彼は、湯婆婆のもとを去ることを決めるのだ。
 

千尋の成長

 
 一度、ここまでの話をまとめてみる。
 
 千尋が訪れた「あちら側」、油屋のある場所は、異界だ。しかしその異界において、神々の穢れを落とすための油屋という場まで、資本主義経済が、「こちら側」の力が侵食している。その場では、自分というものを持っていないカオナシも、力だけを求めたハクも、飲み込まれてしまう。資本主義的な、相手の名前を奪い、その資本主義的な場に役立つためだけの名前とする契約。しかし、その契約は、湯婆婆、銭婆が使う「魔法」の力と、表裏一体なのだ。
 
 千尋は、銭婆のもとから油屋へ戻り、両親を救い出す(いくつもの豚の中から両親を当てる、という問題で、千尋は「この中に両親はいない」という正解を述べる。千尋にとって、両親は、あの二人だ。顔がない、アイデンティティのない豚ではないのだ)。それは、油屋の従業員たちからも祝福され、お祝いムードに包まれる。繰り返しになるが、油屋は、千尋にとって、決してネガティブなだけの場ではない。
 
 千尋は、ハクと一緒に、「あちら側」と「こちら側」の境界の川まで戻る。二人は、一緒に「こちら側」に戻ることはできない。なぜなら、ハクはもう死んでいるから。けれど、ハクは千尋に、「また会える」と言う。これは、希望だ。死んだらもう「こちら側」へ戻ることができない、電車は一方通行の、今の世界。けれど、きっと、また会えるのだ。ハクが「こちら側」へ戻ってくることができる可能性を、物語は残している。
 
 千尋は、ハクを振り返らず、こちら側へ帰ってくる。両親と一緒に。
 
 両親と一緒に、「こちら側」へのトンネルをくぐる際、千尋は、物語冒頭で「こちら側」から「あちら側」に行った際とまったく同じ、おびえた態度を取る。まったく同じ映像だ。
 
 このおびえは、千尋が成長していないことを意味しない。異なる場へと行くことは、変化することは、怖いのだ。それは、「こちら側」から「あちら側」へ行く場合でも、「あちら側」から「こちら側」へ来る場合でも、変わらない。慣れた場所から、違う場所へ行くことの、怖さ(千尋が、「引っ越しをしてきた」ことも思い出される)。
 
 でも、千尋は、怖さを感じながらも、トンネルを抜けて「こちら側」に出てきたときには、初めて「あちら側」を訪れた際とはまったく違い、落ち着いている。なぜなら、彼女は、成長しているから。まったく知らない「あちら側」で、油屋で、初めての経験をして、でもそこで働くことができた。関係を築けた。両親を、ハクを助けることができた。「こちら側」で、まったく知らない場所で、新しい学校に転校しても、千尋はもう、やっていくことができるのだ(まさに、通過儀礼を経て、千尋は成長したのだ)。
 
「こちら側」に戻ってきたとき、千尋たちがトンネルの手前まで乗ってきた車は、葉に覆われている。ある程度の時間が経過しているのだ(でも、エンジンはかかる。年単位で時間が経ってしまっているわけではない)。「こちら側」と「あちら側」の時間経過は、同じではない(神隠しにあった人が、数十年後に、神隠しにあったときと同じ姿で戻ってくる民話は、多くある)。きっと、千尋が「あちら側」で過ごしたよりも長い時間が、「こちら側」では過ぎている。この時間の経過は、千尋の成長を表しているだろう。
 
(「子供」という観点で見ると、坊の成長も見逃せないだろう。屋内で過保護に育てられているわがままな坊は、千尋と一緒に外に出て、その後、自分の足で立つようになる。)
 
 

この壊れた世界で、ぼくたちはどう生きるか

 
 最後に、この世界について、もう少しだけ、考えてみる。
 
 物語冒頭で、千尋たちがトンネルを抜けたとき、千尋のお父さんは、ここはテーマパークの残骸だ、と言う。「九十年頃にあちこちでたくさん計画されてさ、バブルがはじけてみんな潰れちゃったんだよ」と。
 
 乱立し、潰れたテーマパーク。それが、この物語の舞台の入り口になっていること。
 
 行き過ぎて立ち行かなくなった資本主義経済の末路としての、崩壊したテーマパーク。それは、現代社会の象徴だ。そして、それが、「あちら側」に、異界に、つまり、ハクがいる「死後の世界」に重ねられているということ。
 
 それは、ぼくたちが生きる現在のこの世界が、すでに壊れてしまった世界であることを暗示している。
 
 潰れたテーマパーク、千尋たちが新たに引っ越すニュータウン=それを作るために壊された山、放置された祠、マンション建設により埋め立てられたコハク川。行き過ぎた資本主義、暴走した「こちら側」の力によって、世界は、すでに、壊れている。
 
 思い出してみると、宮﨑駿の映画は、「壊れた世界」を多く描いてきた。『風の谷のナウシカ』は、核戦争で崩壊した後の世界を描いている。『天空の城ラピュタ』は、行き過ぎた科学の力でラピュタが崩壊した後の物語だ。『魔女の宅急便』は、魔女の力が失われてきた世界が舞台。『紅の豚』は、第一次戦争の後、ポルコの青春が終わった後の物語。『もののけ姫』は、世界が壊れる様そのものを描いている。『崖の上のポニョ』も、温暖化によって世界が海に沈んだ後の世界だろう。そして、『君たちはどう生きるか』。この映画も、積み木が崩れ、世界が壊れる場面が描かれる。そして、その後の世界で、君たちは、どう生きるのか。
 
 きっと、宮﨑駿は、この世界を、すでに壊れてしまった世界だと考えている。そして、そこで、ぼくたちは、君たちはどう生きるのかということを、その模索を、繰り返し、描いているのだ。
 
 話を『千と千尋の神隠し』に戻す。「あちら側」で、油屋のある世界で、千尋は、成長する。なんとか、生きていく。彼女は、この壊れた世界で、がんばって、生きていくのだ。千尋は、世界を救わない。でも、この世界で、生きていくことができる。この壊れた世界で、千尋が生きていく様を、この映画は描いている。
 
 でも、この物語では、壊れた世界に対して、希望も描かれている。描かれる資本主義的な場、油屋は、ただネガティブな部分だけが描かれるわけでもない。千尋が出す仕事の成果。働く楽しさ。仕事は、働くことは、悪いものではない。
 
 行き過ぎた資本主義に対して、希望として描かれているのは、それと表裏一体として存在するべき、「あちら側」の力だ。その具体的なものとして挙げられているのは、職人的な手工業だろう。けれど、この物語が描いているのは、単純な「あちら側」の力の復興ではない。それは、「こちら側」の力と、表裏一体のものとして描かれる。「こちら側」の力と、「あちら側」の力。その表裏一体のあり方こそが、希望なのだ。「あちら側」と「こちら側」、その二項対立的な考え方を乗り越えた先に、未来がある(電車の行き先が「中道」だったことも、これと関係があるだろうか)。
 
 千尋とハクが別れるとき、ハクは、また会える、と言う。ハクはすでに死んでいる。でも、きっとまた会えるのだ。「あちら側」から「こちら側」に、きっと、戻ってくることができる。その可能性は、失われていない。再生への願いが、この物語には描かれている。
 
(死と再生は、この物語で繰り返し描かれる。油屋という、神々の死と再生の場。千尋は通過儀礼として、一度名前を奪われ、そして再び彼女として生きる。ハクの死、そして、予期される再生。)

 
   ***

 ぼくの宮崎の祖父母は、もう亡くなっている。
 
 小学校、中学校、高校、大学のときに宮崎で過ごした夏は、ぼくにとって非日常の、とても大事な時間だった。そういう場所があったことは、幸せなことだった。
 
 以前ほど、宮崎に帰る機会は多くない。でも、今も、母の姉夫婦が祖父母の家を守ってくれている(ありがたいことだ、と思っている)。たまに帰ると、これまで過ごした夏を思い出す。
 
 また、あんな夏を過ごしたい。ぼくにとって非日常の場をたまに訪れながら、生きていけたらいい、と思う。そこできっとぼくは、自分を思い出す。

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なみきゆうき
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