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もう息子に教えることは無い。ただ一つあるなら…

昨夜、息子の成長に目を見張った。
正確には、耳を耳張った。
いや、心の目が、目を見張った。

よく、言葉の捉え方や会話そのものでスレ違う息子と私。昨夜もそんな瞬間が訪れた。ウワッ…また来た…と、いつも思う。嫌な時間だ。

その時に依るが、
私は昨夜ヒートアップした。
問題は、私が息子にした質問の意味が、ズレて捉えられ、ズレた返答が来たことだった。
『はぁ?今の会話の流れでなんでそうなる?』というのが、出発点。
でも息子からは私のその捉え方がおかしいと指摘され、反論された。
納得行かないやら悔しいやら分かって欲しいやらで、テンション頭上からまくし立て、通じないから止まらなかった。

息子が自分の部屋へ逃げ扉を半分閉めても私は疑問を投げ続けた。
私「お母さんの言ってることおかしい?」
息子「おかしくないんだよ。でももう一つの受取り方も全然おかしくないんだよ」
息子は冷静だった。
だんだん冷静になって来たようだった。

最後に息子はこう言った。
息子「言い出した方(=私)が、それが伝わらなくておかしいと思うのは当たり前。でも客観的に見れば、どっちの意味にも捉えられる」
私「客観的に見ても、そう思えないんだよ」
息子「それはまだ客観的になり切れてないんじゃない?」

私はこの一撃に、ボワ〜ンと、自分の中心から何かが鈍く広がって行くのを感じ、黙った。
そうかもしれない。
その通りかもしれない。

その後私は夕飯を作りながら、そのやり取りを感じていた。 私のこういう時のヒートアップは、狂気じみてる。なんでこんなふうになっちゃうんだろう?どういう時にこうなっちゃうんだろう?… …恐らく私は、自分を「おかしい」と評価されることに、物凄く強烈な反発心が生まれるんだと思う。自分の感覚を、そういう存在を、分かって欲しいのだ。存在を認めて欲しいのだ。理解はされなくても、「あぁそういうことね」と知って欲しいのだ。全否定が恐いのだ。

そう…これは、私そのもの。そして、だからこそ私が全ての人にしたいことを映している。全ての存在を認めること。 てことは、息子の捉え方がズレてるとかおかしいと訴える私も、その存在を否定してしまっている…最悪だ。

今度、私は芝居のオーディションに応募しようとしているのだが、その役に、この狂気じみた感じが出るといいな〜なんてことも過ぎった。

夕飯が出来て、息子と二人で食べた。
さっきの言い合いから、小一時間経っただろうか?
食べながら、私は言った。
私「さっき、(最後に言ってくれたこと)あれ、すごいと思った。あの見方はお母さんには無かったわ」
息子「実は僕も自分で言って、びっくりした」
…ですって!!

もう少し、ゆっくり突っ込んでみると、
どうやら一年以上前に息子が姉と喧嘩した時から自分の内なる「頑固さ」を、どうにかしたいと思って見て来てたらしいの…その経験・時間・視点…から行き着いた発言だった、ようだ。

私は、もう完全に息子に超えられたと思った。息子は16才。超えるも何も、最初から上も下もないのだけど、自分の経験からこんなことを感じて、こんな、私に無い別次元の視点を持つなんて… もう、息子に私が教えることなんて、何も無いと思えた。

何も無いと思ってから、本当に何も無いのかな?と考えてみた。
もしあるとしたら、たった一つ、これだと思う。
人生って、結構おもしろいよ、楽しいよ、ってこと。

そのヒントをくれたのは、「背中で育てる」のeriさんの存在です↓

私もそれを、自分がそう生きる姿で見せて行くことだと思った。

私は、自分がどんなふうに生きて行きたいのか、もう一度その基本に立ち返ります。

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