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ゴミを渡す少年、受け取る青年


こんなゴミも使えるのか


前にも書いたと思うが、家の近くに魚屋がある。その店の前によく大きな水色や緑色の袋がポイ捨てされている。夕方頃に通ると大抵ある。
広げると2メートル×1メートルにもなるだろうその大きさと、見るからに生臭そうな見た目は拾う気を奪うが、それを拾ってこそだと思い、先日勇気を持ってそのゴミを拾い上げた。想像以上の汚れ方だったが、1度拾ったものをその場に捨てられるような状況でなく、大人や子供たちが見ていたこともあり拾い上げて家に持って帰った。一緒に拾っていたエリーゼ(10歳くらい)も、臭いねと言ってきたが、拾ったものはしょうがない。家まで持って帰って捨てようと思った。
ただ、家に持って帰って、これを家に捨てていてはいけないと思った。私がこのゴミを家で捨てては、それはただのゴミ拾いボランティアになる。それ自体は良いことだが、私がこの国を去った後にボランティアでゴミ拾いを続ける人は現れないと確信している。だから、ビジネスにしたわけだ。そして、この魚用の袋だって、これから先も魚屋がある限りはずっと出るゴミである。
大きくて丈夫そうな袋だった。私は天日干しして、風と太陽とハエの力に期待して2日ほど放置した。そして、袋は臭さを殆ど落とし、大きくて丈夫な袋に成り上がった。


水色と緑色の綺麗で丈夫な袋として利用できる

さて、昨日、夕方にゴミ拾いに出た。そして、例の魚屋の前を通った。すると、10歳ほどの少年が大きな青い袋2枚と、破れた透明な袋を3枚持って、私に渡してきた。客観的に書けば、「10歳の少年が魚用に使った生臭さ満開の大きなゴミを、洗いもせず汚いままの状態で渡してきた」ということになる。そして、私はこれを受け取った。透明の袋の方はもはや何にも使えるような状態ではなかった。ボール作りの時に中に入れるのがせいぜいだろうが、匂いが気になりすぎてそれもできないだろう。青い大きな袋は、例によって例のごとく匂いという条件を除けばやはり良い材料だと思った。
いや、しかしそれ以前に私は怒りのような感情が優先していた。人に汚いゴミを渡されるということに対する怒りだろうか。まぁ、そんなことは普通に生きていたらないだろうから、困惑も含め、慣れていないことで感情が追いついていないというのもあったろう。しかし、ここは日本ではない。ブルキナファソ、私がまだまだ知らない場所である。

この事実をどう捉えるか

想像で話すことになるが、何が起きたかを考えてみる。まず、昨日は魚屋の前にその大きなゴミが落ちていなかった。つまり、魚屋はポイ捨てをしていなかった。彼らは私にゴミを渡すために、ポイ捨てをせずに待っていたと考えられる。これは何よりも評価すべき所であろう。私の後継者ができたとして、彼らはゴミを拾うより、ポイ捨てしていた人々から直接受け取る方が良いに決まっている。ポイ捨てをすれば、ゴミは風で遠くに飛ばされたり、水溜まりに落ちて汚れたり、川に落ちたりする。しかし、ポイ捨てをせずに直接渡してくれれば、状態が良くて、草鞋(わらじ)やボールを作る材料として使いやすく、かつ風で飛んでいくことも無いため環境に良い。だから、昨日、少年がゴミを直接渡してくれたことは、1つの前進だと考えるべきだろう。そして、次に汚いままであったということについてだが、私は前回ゴミを拾った時も、汚いことを嫌がっている素振りは当然していた(袋の端の方を持つなど)。ただ、彼らがそれを見ていたかどうかは確信はない。そして、仮に私が汚いままでは嫌だとしても、彼らはそれを水で洗うほど、水の余裕がないかもしれない。家に水道が通っているかどうかも分からない。だとすれば、汚いままでも致し方ないかもしれない。最後に、彼らは私が来ることを恐らく待っていた。ポイ捨てはしたいタイミングでするものだろう。不要なもの(ゴミ)が出た瞬間にするものだろう。もし仮に彼らが私のことを待っていたとしたら、彼らは不要なものをポイ捨てせずに、私が来るまで店の中に置いていたことになる。それは、彼らにとっては嫌だったかもしれない。普段はないようなゴミが家の中にあるのだから。他人が自分のために行動を変えてくれたのなら、それは協力以外の何物でもないだろう。


このポイ捨てゴミの中に、あの大きな袋もあったら…
それがポイ捨てされなかったことを評価すべきだろう

まぁ、こう思えるまでに少し時間が必要だっだが、結論から言うと私はその魚屋の行動を評価したいと思うし、この一連のことを前進だと思いたい。もちろん、この袋を干す作業も簡単ではない。風で飛ばされないようにしなくてはいけないし、自分の生活の中に生臭さが入ってくるのは当然だが嫌だから、ここも工夫が必要だ。そして、加工も難しい。私の後継者が我慢強く、そして真面目で、面倒臭がりやではなく、怠け者でなければ、魚の袋はきっと良い材料になるだろうし、魚屋があり続けてもゴミは路上に増えていかないだろう。

まだまだ

そうなるはずだと確信を持てるようにしてから、来年の1月を迎えたいものだ。そのためにやれることは、今日からもまた定期的に夕方になったら、その店の辺りを歩くことだろう。そして、怠けずに、家の庭に干すことだろう。雨が降ればもっと綺麗になるかもしれない。綺麗は言い過ぎだろうけど、そういうことだ。
人を変えることはできるのかという話を前に書いたが、その人に変わる意思があれば変えることはできる。

https://note.com/namifu/n/nb0899751e414


もう少し言うと、その意思というのを提供はできなくても、意志を持つように影響することはできる。優しさや同情といった感情が彼らにあるからこそ、私のためにきっとやってくれているし、実際に変わってくれている。私は彼らのためにやっているが、それはまだまだ先の話だ。今はまだ、ポイ捨てをやめてゴミを私に届けた彼らこそ素晴らしいのだろう。

生臭い袋を渡された時、私はどんな表情をしていただろうか。今思えば、正しい表情ではなかった。礼を言ったのが、少しはマシな点だろうか。ここに住む人々のことをちゃんと理解しなければ、瞬発的に間違えることは多発するだろう。しかし、ちゃんと理解するのに9ヶ月は短すぎるだろう。さて、この旅はどこまで行けるだろうか。

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