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人を変えることはできないのか:ゴミを拾い、思うこと

今日はブルキナファソでゴミを拾う中で起こったことなどを書きます。

私のゴミ問題全体の話は初回3回分にある程度まとめています⬇


ゴミ拾いをする変な青年

ゴミ拾いをしている人を見て、あなたは何を思うだろうか。
日本にいたら、「あの人は偉いなぁ」とか「時には自分もやって見るか」とか「昨日ポイ捨てしてしまったけど、あれは良くなかったな」とか、そんなことを感じると思う。ポイ捨てをしてる人をTwitterで追いかけると、「今日は地元の人に感謝された」など書いている人もいる。
しかし、もし本当にポイ捨てをする人が殆どで、ポイ捨てをしない人の方が珍しかったら、もし本当にポイ捨てをすることが悪いことだという価値観がない人ばかりいたら、ゴミ拾いをする人はどう見られるだろうか。

道の脇で土を掘って集めている人がいるとしよう。なんでアイツは土集めてるんだ?なんか怪しくないか?関わらないでおこう、とかたぶんそういう風に思われるだろうが、ブルキナファソで私がゴミを拾い始めた時、きっとそんな風な目で見られていたと思う。一部の人は、ポイ捨てがいけないことだと知っているが、それ以外の大勢の人は、そんなこと知らないため、私を見て変なやつがいるぞと思っていたに違いない。

子供たちは違った。彼らは何のためにゴミを拾うのかもポイ捨てがいけないことだとも知らないだろうが、私がゴミを拾い始めると、後ろから付いてきてゴミを拾って集めてくれて、私に渡してくれる。彼らは私に褒めて欲しくて、認めて欲しくて、私の手伝いをしているように思うが、どんな理由であれ、汚いゴミを一緒に拾ってくれる仲間というのは今の私にとっては本当に大切な存在だ。前回、孤独について書いたが

そういう時は私は孤独ではない。子供と共に活動するのは、大変だが楽しい。そして、彼らは多くのことを教えてくれる。身をもって示してくれる。

初めてごみ拾いをした日のことは前々回書いたが、それからもう10回以上はゴミ拾いに行っている。毎回、ビニール袋に重点を置いて拾っているが、それだけでも相当な量が集まる。
初めの方は1つの大きなゴミ袋に拾った袋を入れていく作業だったが、遠目から見てもビニール袋を集めていることが分かるように、紐に通して持つように変えた。その紐ももちろんゴミで作ったものだが。


紐に通して持つことで、遠目からでもビニール袋を集めているのだと分かるだろう


ゴミを拾い始めて4回目、喫茶店で雑談していた4人ほどの男たちの横をゴミを拾いながら通り過ぎようとした。すると、そのうちの一人が声をかけてきた。彼は彼らの足元にあったビニール袋を指さして、「ここにもあるよー」と教えてくれた。私は嬉しかった。ちょっとは協力してくれるように変わってきていると思った。
彼はそのまま、「何に使うのか」と聞いてきて、私が履いていたビニール袋で作った草鞋(わらじ)を見て、「いいね、綺麗だ」と言ってくれた。男たちが私たちの列に加わって一緒にゴミを拾ってくれることはなかったが、彼がゴミの存在を教えてくれただけでも私は嬉しかった。
ゴミを拾い始めて7回目、例によって例のごとくビニール袋を拾い集めていると、喫茶店に座っている人たちが、またしても声をかけてきた。彼らは私の草鞋を見て、サムズアップをした。そして、彼の足元に落ちていたビニール袋を4枚拾って、私に渡してくれた。彼らは私がゴミを集めていることを知らないだろう。ただただ草鞋を作るためにビニール袋を拾っているやつだとしか思っていないだろう。けれど、汚いという先入観があるはずの落ちているビニール袋に手を伸ばし、拾って渡してくれた。

この国の人を変えられるかもしれない


世界はこんなにも変わっていくのかと感じた。人は人のために優しさを発揮することがある。優しさを発揮した先で変わることがある。理由が何であれ、この国の大人がゴミを拾うのを見た時、私は感動さえした。たった、7回目である。
私はここに9ヶ月しかいないが、私が思っている以上に何かを変えられるかもしれないと思った。この村だけでも良いんだ、その取り組みが広がっていく未来があるのなら、私がいるうちはこの村だけでも変えられたら十分なんだと思っている。ゴミを拾い、品に変え、それを売ってお金にする。そんなビジネスが成立した先でゴミを拾う人はきっと増えるだろう。
しかし、厳しいことを言えば同時にゴミを出す人を減らさなくてはいけないのだ。どんなに小さな買い物でも店員は袋を必ず使う。ジュースをコップで持ってきてくれる時に、袋を被せて持ってくる人も多い。砂や異物の混入を防いでいるのだろうけど、本当は必要ない気がする。ペットボトル1本にもマンゴー1個にも本当は袋は要らないはずだ。しかし、彼らはそれが当たり前だから袋を使う。袋を使うことは店のレベルを示しているとも思う。しっかり袋を付ける店は信用度が高いのかもしれない。けれど、本当は要らないはずだ。
うちの家の女性は、スープを買いに行く時に鍋を持っていくことがある。それこそが正しいやり方だろう。スープを袋で買ってくる方が変だと思うが、この国ではそっちの方が主流になってしまっている。かつて、日本も豆腐を買いにザルや鍋を持って家を出たそうではないか。共働きが増え、訪問型の豆腐屋が消え、時間に追われるようになった日本において、その頃の生活に戻すことは不可能に近いだろうけど、この国ではまだそれは成立する。家を出て歩いて買いに行くのだから、鍋をひとつ持って行けば良い。
ただ、そうは言ってもこの国においてゴミを出す人を減らすことは、とても難しい課題だろう。しかし、ポイ捨てをする人を減らすのはもう少し簡単な気がする。もしも、ゴミを利用するビジネスが増えて、人々がゴミを貯めるようになったら、またはゴミビジネスをやる人が近所の人にゴミを貯めておくようにお願いするようになったら、ポイ捨てをする人は激減するだろう。お店や家庭で出る大量のゴミも、そこに住む人が自分の分だけ面倒を見れば何も大したことではないのだから。
この国は人と人との繋がりがとても強い。近所の人たちは名前も部族もお互いに知っている。子供たちの繋がりはもっと強い。だからこそ、この国なら、喫茶店の店員にゴミを集めておくように頼んだり、近隣の人にゴミを集めておくように頼んだり、それをお互いに買ったり売ったりできる気がするのだ。日本のように、情報を元に遠くの人に売ったりはできないかもしれないが、小さな取引がどんどん大きくなれるほど、ここの人同士の繋がりは強いと思う。

モチベーションをくれる人々

話を戻して、ゴミを拾う私をみんなは興味を持って見る。変なやつだと思っている人がまだまだ多いのは感じるが、それを使ってモノを作り、売ろうとしているのだと言うことを徐々に周知できている。一緒になって拾ってくれる大人はまずいないし、相変わらずポイ捨て現場を10分に1回は見る。そして、子供を除けば自主的に集めてくれる人などいるはずがない。けれど、マブドゥ(私のホスト)は違った。彼はマンゴーを買ってきた時の袋も氷を買ってきた時の袋も、自分が手に入れた袋は捨てないで私にくれる。
ポイ捨てをすることはとても楽だ。しかし、その習慣を私のために変えてくれる。彼は優しさでもって変わってくれた。家の女性たちはまだ私の前でもポイ捨てをする。よく分かっていないと思うからしょうがないが、時々彼女たちの前で拾う。もう少し経てば私に渡してくれるようになるだろう。そんな小さな前進が私のモチベーションを保ってくれる。
街に出るまでに大きな川がある。川沿いは大量のゴミで埋め尽くされている。ブルキナファソには海はないけれど、間違いなくこの国は海洋プラスチックゴミ問題の一因になっている。


私がこの国を去るまであと7ヶ月、彼らが私の意思を継いでくれるようにできるだろうか

私がゴミを拾ってモノを作るのを見た子供たちが、自主的にゴミを拾って来てくれるようになった。学校の帰りや、私の家に来るまでの道で拾ったゴミを渡してくれるようになった。2歳にも満たない子が、10袋も持ってきた時は思わず抱きしめてしまった笑
時々、気が向いた時しかしてくれないけど、今はそれで十分だ。小さい小さいことだけど、この村は「ゴミ問題」という途方もない難題に関して、前に進み始めたのだと私は思いたい。
ここでこんな活動をしていると本当に小さなことに喜べるようになる。もっとハングリーであれと言われるかもしれないが、喜びは喜びである。目標を下げる気はないが、小さなことに満足できるうちは、それをモチベーションにして今日も今日とてゴミを拾う。子供たちと共に。


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