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「わかって欲しい」から「わかりたい」へ

「生きづらさ」を抱えてしまった人は、幼い頃に「わかって欲しい」という欲求を満たされなかった人です。

今、泣きたい気持ちを、
今、はしゃぎたい気持ちを、

心の奥底に閉じ込めて、親が望む、

明るい良い子や、
おとなしい良い子に、

なってみせる必要が有った人です。

その時の、自分の本当の感情は心の奥の深い所に放置され、
何十年経ったとしても、自然に溶けて無くなることはありません。

本人は、幼い頃に泣きたかったのに我慢ばかりしていたことや、
はしゃぎたいのを、何時もいつも押し殺さなくてはならなかったことに、

まさか大人になった今も尚、振り回されている、などとは夢々思いません。

いつもは良識ある大人なのに、どうかした拍子に、とてつもない分からず屋に変貌する人や、

お酒を飲むと、或いはハンドルを握ると、人格が豹変する人なども、

遠い昔に心の奥に閉じ込めた満たされない感情に、突き動かされている可能性は高いと思います。

感情を閉じ込めた幼い頃に、一人でも気持ちをわかってくれる人がいたなら、

気持ちをわかってくれないまでも、
泣きたい気持ちを、
はしゃぎたい気持ちを、
表現することを許す人がいたなら、

心の奥底に未消化のまま放置された、その感情が、
大人になってからまでも、その人を振り回すことは無かったのではないかと思います。


その振り回される人生は、とても生きづらい人生になります。


そんな自分の心の状態に気が付いて、その「生きづらさ」を手放したいと願う様になったなら、

自分と向き合い、幼い頃の感情を閉じ込めた出来事を見つめ、

封印していた感情を感じ尽くすステップを経て、

「生きづらさ」を手放すことが出来ます。

心は信じられないくらいに軽くなります。

重々しい心を軽やかにしたい、と思って取り組んだことが実を結んだ、と言えます。


しかし、心に閉じ込めていた満たされない感情があまりにも大きかった場合、

その残骸とも言えるものが、心の中に残ることは、少なくありません。

つまり、90%は未消化の感情を感じ尽くし、溶かすことが出来ても、
まだ、10%が残っている状態です。

これまでの様に、呑み込まれたり、振り回されることは無くなっても、

時として、例えば体調がすぐれない時や、仕事などのストレスから心が波立っている時など、

残骸が騒ぎ出すことが有ります。

90%の未消化の感情は感じ尽くし、溶かすことが出来ています。

残骸が騒いでも、十分の一です。


これまでの様に、呑み込まれたり、振り回されたりということが無いことは、実感として分かります。

なのですが騒ぐのは、幼い頃「わかって欲しかった」感情です。

本来、なんの制約も無く、伸びやかに表現して然るべき時に、我慢して放置した、わかって貰えなかった感情、言わば「無念」です。

例え十分の一になっても「わかって欲しい」という感情は強烈です。

心穏やかな時にはコントロールが効く未消化の感情の残骸が、
心が波立ったタイミングで顔を覗かせ騒ぎます。

私の場合、その時に現れるのが「わかって欲しい」という願望です。

その事も把握出来てはいますが、騒ぐものは騒ぎます。

今のところは、十分の一の残骸が心の中に残っているのですから、
これも私の個性という事になります。

幼い頃だったら「わかって欲しい」という思いは、泣いたり、すねたり、怒ったり、というカタチで現れるのでしょうが、

大人になって久しい私に表出するのは、「押し付けがましさ」です。

つまり「わかって欲しい」事を押し付けるのです。

その正体は幼い頃の未消化な感情であることもわかっているのですが、

なにぶん、機能不全家庭に生まれ育ったので、
閉じ込められた感情は沢山あった訳です。

今のところは、心が波立ったタイミングで現れる「押し付けがましさ」は、
出来るだけ我慢しない様にしています。

なぜなら、押さえ込むことは、幼少期に感情を閉じ込めたことの焼き直しになってしまうから、です。

今は抑え込み過ぎず、私の傍迷惑な個性だと考えています。

長いこと未消化のまま放置されていた「私」の一部分なのですから、自分で自分をえこひいきして、

それもイイ、と思っています。

勿論、この残骸を撤去する作業はこれからも気長に取り組みたいと考えています。

自分と向き合う取り組みによって、未消化の感情の90%が溶けた分、同じ量の自分に対する「安心感」が生まれたと感じていて、

それが、「これが今の私」と思えていて、その事によって生じる不都合や不利益も納得出来ています。

私は最近、仕事や人間関係のトラブル、人生の望まないことも、自分がどう感じ、どう行動するかを楽しめています。

もしかすると、傍迷惑な個性のお陰で、実生活の困難さは多少増しているタイミングなのかも知れませんが、

その事がそれ程、苦労に思わないのは、自分に対する「安心感」があるからだと思っています。

そして、少し傍迷惑な個性をも取り除かれる日が来たなら、

またひとつ変化するだろうことが楽しみに思えています。

希望的観測として、

「わかって欲しい」が、

「わかりたい」に変わるのが合図だ、

と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム


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