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人生の舵を握るのは誰 有価値と無価値と親離れ

自尊心を育てる

幼い頃に、じゅうぶんな愛情を注がれないとき、人はどうしても、そうなります。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。

あなたは、親離れは出来ていますか?

いくつだと思ってるんだ。
とっくに自立している。

そう思われる方も多いことでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか?

ここで言う「自立」とは、
経済的なことを指しません。

精神的、心理的に
親から完全に離れることが、
出来ているか、否かです。

それは、
自分の人生を生きようとするとき、
とても、重要になってきます。

これからの人生の舵取りを
他人に委ねるのか、
自分が舵を握るのか。

分岐点です。

結論から申し上げます。

健康的な親離れが出来るか否かは
有価値感が優位な人に育ったのか、
無価値感が優位な人になったのか、
にかかっています。

人ひとりが、
この世に生を受けて、
一人の大人として、
自立して、
その人生を歩むまでには、
様々な出来事が起こります。

その起こった出来事の全てに、
有価値な意味づけをして、
大人になる人はいません。

皆、無価値な意味づけも
するのです。

しかし、今日のテーマの
親離れということに於いては、
少なくとも、
有価値感が優位でなければ、
健康的な親離れは
難しいと思います。

健康的な親離れとは、
親子と言えども、
互いに、一人の人間として
相対することが出来る
関係性です。
カラッとあっさりしているのです。

対して、不健康な親離れは、
互いに束縛しあいながらも、
本心は開かさず、
いうなれば
共依存、反依存的な在り方です。
ウエットな、じめっとした
関係性です。

感情の発露までもが、
干渉の対象なので、
カラッとしようがないのは、
お分かり頂けるのでは
ないでしょうか。

要約すると、

健康的な親子には、
明確な感情の境界線が
あるのに対し、

不健康な親子は、
互いの感情の境界線が、
極めて曖昧なのです。

感情の境界線は
人間が個として成り立つ上で、
重要事項です。

感情の境界線があやふやである
ということは、
互いに一個の人格として
認めていないということ
なのです。

一個の人格として
成り立っていない者同士が
二手に別れようと言うのですから、
カラッと健康的にはいかない訳です。


まず、
健康的な親離れが
出来る子供の場合です。

例えで、男の子とします。

この世に
おぎゃーと生まれて間もない

乳児期は、

生涯で唯一、
無償の愛を享受できる時です。
生まれて間もない乳児には、
自分と他人の区別がありません。

そんな自と他の区別が無い世界で
お腹が減ったら、
母乳が与えられ、

オムツが汚れたら、
交換してもらえ、

優しい眼差しを注がれて、
愛情たっぷりに語りかけられる。

抱きしめてももらえれば、
撫でてももらえる。

望めば、全てが叶う世界で、
乳児は、幼児的万能感を満喫します。

乳児はやがて幼児へと成長します。

外の世界と接することで、
健康的な限界を知ることとなる
一方で、

乳児期に育まれた幼児的万能感は、
この頃には自分には
絶対的に価値がある、という感覚、
有価値感へと育ちつつあります。

有価値感が
育ちつつあるからこそ、

健康的な限界を知っても、

限界があろうとも、
自分には変わらず
価値があると思えて、

限界を受け入れることが
出来るのです。

自分には価値があると
思えればこそ、
価値ある自分が、
引きつけられることに
純粋な興味を向ける
好奇心が育ちます。


有価値感は自尊心と
一括りです。

有価値を感じることで、
自分を尊いと思う心が
育まれるのです。


そして幼児は
少年へと成長します。

少年は未熟ながらも、
これまで育てた
自尊心を携えて、
より大きな世界の入口に立つのです。

はじめは未熟さの目立つ
青い自尊心も、
大きな世界で揉まれるうちに、
次第に頼もしく変貌をとげます。

その頃には、
絶対的に価値がある、と言う思いを
もて余し、
親に、社会に、あらゆるものに、
反抗の切っ先を向けたりもします。

それは、ある意味必要な通過儀礼で、
現れる出来事を、
乗り越え、弾かれすることで、
自尊心は揺るぎなくなるのです。

少年は、やがて青年となり、
健康的な親離れを経て、
一人の大人として立つのです。

こうして見ると、
赤ん坊が、一人の大人となる過程は、
自尊心を育てる航海とも言えます。

人の成長過程には、
それぞれの年齢に応じた
発達課題があります。

乳離れ、
外界との接触、
社会性の獲得、etc

まだまだ沢山、

毎日が課題と言っても
過言ではありません。

その課題をクリアする度に、
自尊心は育まれます。


無価値感優位

毎日が発達課題であるならば、
人生初期の幼児的万能感を
満喫することが出来ない
赤ん坊が居たら、どうなるでしょうか。

母乳は与えられない、
オムツは換えてもらえない、
優しい眼差しは向けられない、
語りかけても、
抱きしめても、
撫でてももらえない…。

どうでしょう?

万能感を
満喫するどころではないですよね。

すると、有価値感の芽とも言うべき、
幼児的万能感を感じることが出来ず、
芽は育ちません。

発達課題は
クリア出来なかった訳です。

やがて幼児になり、外界と触れて、
自分の限界を突きつけられた時、

自分には無条件で価値がある、
という有価値を感じていない
幼児は、その限界を受け入れられず、

出来事に
「自分は何も出来ない。」
と言う、無価値な意味づけを
してしまうことになります。

また、
自分には価値がある
と思えればこそ、
価値ある自分が、
引きつけられることに
純粋な興味を向ける
好奇心が育ちますが、

有価値感の芽を摘まれてしまった
幼児は好奇心を育むことにも、
失敗します。
そして、残るのは、
無価値な意味づけ、そして
無価値を感じるのです。

かくして、人生の初期に
発達課題をクリア出来ず、
無価値を感じた子供は、

課題を次々に失敗し、

雪だるま式に膨れ上がった
無価値感によって

無価値感優位な大人になります。


誰の人生なのか

親離れもまた、発達課題のひとつです。

経済的には、とうの昔に自立している。
結婚もして、昇進もしている。
どこから、どう見ても
立派な大人だ。

でも
親と話すと、
気持ちが重い。
いや、物事を決める時、
親はどう思うのかが頭をよぎる……。
いつも、そうだ。
ずっと、そう。

それが、不健康な親離れです。



人生初期のつまづきは

決して、

あなたのせいではありません。

生まれ落ちた場所が
たまたま、そういう場所だったのです。

この世には、本来、
良いも悪いもありません。

ただ、そう生まれついて、そう育った。

あなたは悪くない。

父親も母親も悪くありません。

そして、あなたは、知ったのです。

知ることが、すべての始まりです。

知らざる者は選べませんが、

知る者は、
知るあなたは、
選ぶことが出来るのです。

これからを選べば良いのです。

「知ること」が
すべてではないけれど、

すべては「知ること」から始まります。

知らざる者は選べません。


知る者のみが選べるのです。


そして、あなたは知りました。

あなたは、選ぶことができるのです。


人生の舵を、誰が握るのか。


あなたは、選べます。



NAMIDAサポート協会
心の伴走者ノゾム










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