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この海が見たかったんだ、と解った日

数十年振りに、郷里の港町に居を移しました。

随分と綺麗な街になりました。

子供の頃は国ごと発展することに懸命で、この街の、川も溝もドブの臭いを放っており、街中も、港を始めとする海も、ゴミが目立つ、そんな景色でした。

一時期、中国の公害問題が盛んに報道されていましたが、

発展途上にあった、私が子供だった頃の我が国日本も環境に対する意識は低く、環境を守ることよりも経済的な発展を、それこそイケイケで推し進めていました。

中国は国土が広大なので、環境破壊も規模が大きいことは間違いありませんが、

環境に対する意識の低さは、発展途上の宿命なのか、当時の日本も酷かった様に、子供ながらも肌感覚で覚えています。

公害病も、社会問題でした。
イタイイタイ病、水俣病、カネミ油中毒、まだまだ沢山。


私が子供時代を過ごしたこの街も、川は家庭の汚水が垂れ流し放題だったので、流れが静かな場所では、油が虹色に浮き、流れが急な場所では、洗剤が泡になり、流れに高低差があるところでは、シャボン玉が勝手に出来ていました。

そんな川や海で、ドブ臭にまみれ、遊んだり泳いだりしていましたが、健康被害はありません。

建物の解体現場などは冒険の場所だったのですが、アスベストだらけでしたし、学校の体育館などは、アスベストはむき出しの箇所もあった様に記憶しています。

せっかく海と山に囲まれていても、汚れるだけ汚れた街だったのです。

私は18才で郷里を離れ、若いうちは数年置きに帰省してましたが、

途中からは10年に一回程度しか帰らなくなっていました。

それというのも、私が抱えた「生きづらさ」の原因は母子関係にあり、

物理的、経済的に離れ、時間は数十年経っても、私の心の中から「生きづらさ」が消えることは無かったからです。

母からは離れなくてはならない、と頑なに思ってました。

親戚から見たら、親を捨てて気楽に都会で暮らしている親不孝者ですが、離れた事は今もって正解だったと思っています。

その親不孝者が長い事離れていた故郷に戻ったのは、母が倒れ、24時間の介護が必要になったからです。

母の人生も大詰めを迎え、親不孝者は帰って来たのです。

私はこの街を、私をはじき出した街と思ってました。

海や山で遊んだ記憶はあるものの、家庭内で両親からイジメられた感覚の方が強く、

息苦しく、挙げ句の果てに、私をはじき出した街、そう思ってました。

本当は親子に問題があったのであって、街はたしかに汚れてはいたものの、何も悪くない訳ですが、

私はある意味、街ごと恨んでました。

そうやって恨みの対象が広がる事で、親への恨みが薄まって見えたのかも知れないと、後付けで考えたりしました。

そんな理不尽な理由で私から嫌われていたこの街が、

長い時を経て帰った私を優しく迎えてくれたのです。

私の方は警戒してました。

この忌まわしい街を自分がどんな気持ちで歩き、どんな気持ちで眺めることか、と思ってました。

今や、ドブ臭も無く毎日、清掃船が活躍する海はゴミもほとんどありません。

そんな事が好印象だったのか、私の心が変わったのか、その両方なのかはわかりませんが、

街は微笑んでいるのです。

この街は、海岸線が入り組んだリアス式海岸で、海岸線が長いのです。

私は、その海岸線を車やバイクで走るのが好きです。

走っているうちに、いつまでもそうしていたい気分にさせられます。

都会で暮らしていた間も、海を見たくなってました。

でも、おいそれとは行ける環境ではありませんでした。
海から遠いだけで無く、渋滞が激しくて何時間かかるやら、その日によってなので読めない訳です。

それでも意を決して、早朝家を出て、海を目指した事もあります。

そして、到着して、海を波を、空を雲をひとしきり眺めます。

多くの名曲にも、歌われる海岸なのですが、開放感はあっても、あまり感慨はありません。


故郷に戻って、初めて海岸線を走った時、「自分はここに来たかったんだ。」とわかりました。

海はあっても、波はあっても、空や雲があっても、

ココじゃなかったもんな、

と納得しました。


母子関係は溶ける様な事では無いですが、ちょっと前まで警戒していた街が受け入れてくれた事に感謝しています。

手のひらを返す様で、多少バツが悪いのですが、

私はどうやら、


この街が好きなようです。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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