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「少し寂しい」は思いやりの原動力

世に流行る歌のほとんどが恋愛をテーマにしています。

友情や冒険や平和やら、別の題材を歌ったものも勿論ありますが、9割は恋愛をモチーフにした歌の様に思います。

データをとった訳では無いので、感覚的なものではあります。

どうして世の人々は恋愛ソングを好むのでしょうか。

男女の結びつきは、本能に根ざす欲求(食欲、性欲、睡眠欲)の中では、唯一「相手」を必要とします。

私達がコントロール出来るのは、自分の心だけであり、相手つまり恋愛対象の事はコントロール出来ません。

それ故、ドラマティックです。

本能的な極めて強い欲求かつドラマティックだから、流行歌の題材にはうってつけなのでしょう。

おじいちゃん、おばあちゃんの時代も親世代も、私達の時代も、恋愛ソングは流行歌の大半を占めるのです。

そんな中、チラホラと見受けられるのが、「母」を歌った流行歌です。

「母」の中には「母の愛」だったり逆に「母への愛」だったり、その両方だったりします。

その母と子の愛情を歌った流行歌は探すと結構出てきます。

母の愛は空より広く、海より深い、といったような内容が多いかと思います。

人間の三大欲求には数えられないものの、それ以前に子が母を慕う気持ちは本能と言えます。

人の子は個人差はあれど、生まれ落ちてから約10ヶ月もの間、自分の足で歩くことが出来ません。

これは、哺乳類、爬虫類、昆虫類あらゆる生きとし生けるものの中で最も長い「無力な時期」なのです。

その為、子は母を慕う様に出来ています。
母は母性を持って子を愛する様にプログラムされている筈なのです。

母子の愛情は、三大欲求ではないものの、極めて強い欲求であり、相手が有る為ドラマ性もあります。

この時点で流行歌になり得る題材が、「母子間の愛情」です。

流行歌たり得る要素として、

極めて強い欲求であること、
対象が有ってドラマ性が有ること、

そして、もうひとつ、

届きそうで届かない、ありそうでなかなか無い、

という要素が有ると考えます。

届きそうで現実には届かないから、
流行歌の中で疑似体験したい、という思いが人々を引き付けます。

恋愛をモチーフにした歌の中では、現在進行形の恋であっても失恋のシチュエーションを描いていても、
情熱的だったり、時に破滅的であったり、耽美的であったり、刺激的な恋が描かれます。

しかし、実際は恋愛が成就すれば、物語を切り取った様なシーンとは縁遠く、当然ながら恋は日常や生活に姿を変えます。

良い悪いは別にして夫婦の三組に一組は離婚する世の中です。

綺麗な別ればかりでは無い訳です。

時に泥沼劇も有るでしょう。

恋が日常になり、生活になる様を喜びを持って迎えるカップル、夫婦も勿論沢山居ますが、流行りのラブソングの様な恋をしてみたいという憧れを持つ事も自然かも知れません。


恋愛ソングと同様に、本来母も子もプログラムされている筈の「母子間の愛情」も、実は届きそうで届かない、あるようで無い事柄なのかも知れません。

だから、時代や世代が変わっても、恋愛ソング程では無くても一定数「母子間の愛情」を歌った流行歌は創られ続けるのでは無いでしょうか。

生れて十月の間立つことすら出来ない無力な赤ん坊が強力に母を求めるのは、生きる為の唯一の方法です。
慕って慕って慕うのです。

その強力な赤ん坊の要求に母は母性を持って、その子と蜜月の十月を過ごす筈ですが、

時に赤ん坊の強力な欲求に母性が追いつかない場合も有るように思います。

機能不全家庭での母子の在り方を考えると、それは、プログラムのバグとも思われる愛し方がわからない母の姿があります。

そのケースは勿論ですが、健やかな家庭内の母子にしても、「生きる事」が姿を変えた「慕う事」に全力の赤ん坊に対し、

母は必ずしもそれすらも包み込む母性がデフォルトでは無いのかも知れないと思う事が有ります。

つまり、赤ん坊の慕う力と母の母性は6対4ぐらいの強さ関係が規定の割合なのではないかと思うのです。

だから、人は基本的に赤ん坊の時に満たされ無かったから、ふとした時に「少し寂しい」感覚が有るのが至って普通な気がするのです。

祭りの後、夏の終わり、夕暮れ時、もの悲しいのは、取り立てて愛情不足で育った人に限らないと思います。

この「もの悲しい」「少し寂しい」感覚は不必要な感情なのでは決して無く、

人は心の奥に「少し寂しい」感覚があるからより他人に優しくなれたり、他人の気持ちを汲もうとしたり、出来るのではないかと思うんです。

いわば「少し寂しい」感覚は「思いやり」の原動力の様な気がしています。

元気ハツラツだけど細かな配慮が苦手な人、居ますよね。
それは、その人の個性であり、何も悪くありません。
それどころか、その人はきっと自分としては「生き易い」のではないでしょうか。

機能不全家庭に育つと、他人(親)の顔色ばかりが気になります。
この場合きっと「生きづらい」と思いますが、細かい配慮の有る人かも知れません。
この辺りはトレードオフの関係でしょうか。

細かな配慮が出来る(他人の顔色が気になる)人は、今は生きづらいかも知れませんが、

細かな配慮が苦手で、生き易い豪放磊落な人にはなりにくいかも知れませんけど、

少しだけ寂しいけれど、思いやりのある人には意外と近い気がしませんか。

生きづらさが今より少しだけ拭えたなら、それは素敵な個性です。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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