映画「怪物」※ネタバレ含

自分の素直な感想文を書きたいと思った。偏見かもしれないし、全然的外れな考察かもしれないが、自分が鑑賞して思ったこと感じたことを素直に書いてみたい。

まず、物語の結末としての私の考察はバッドエンドだった。けれども鑑賞後の私の心は温かく穏やかだった。その理由を書いていきたい。

「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。そんなものはしょうもない。誰にでも手に入るものが幸せ。」

これは三部で、校長先生が湊に伝えた言葉だ。私はこの言葉を聞いたとき、意味深で大切な言葉なのだろうと心に無理やりに刻んで帰宅した。けれどよく考えても意味がわからなくて、何度も何度も繰り返し考えた。

結果、よくわからなかった。
だが考えているうちに「幸せってなんだろう?(疑問)」から「結局幸せって何なんだろう…(溜息)」と心境が変化した。

幸せとは人生において喜びの大部分を占めるものとして扱われている。「自分の幸せを第一に考える」という自分主義にも結局幸せであることが良いことというのが大前提である。
けれど、本当に「幸せであること」が人生の喜びで全てなのだろうかと思った。

私は、「皆が幸せだと思う選択をできない」ことが湊にとって不幸だとは思わない。人生に喜びがないとも思わない。
逆に湊にとって異性と家族となっていく人生が幸せだとも思わない。

結果、マイノリティであっても「人を好きになる気持ち」そのものを感じることができること、それが幸せなのだとメッセージを受け取ることにした。
だから湊にとって「自分以外」の「誰かにしか手に入らない」幸せはしょうもないものになるのではと思った。

別の角度から人生必ずしも「幸せ」じゃなくてもいいのではないかとも思った。苦しくても、戸惑っても、自分の人生を生き抜くこと。それが生きる意味、そんなことを映画を通して感じた。

三部のラストで、湊とヨリは開いた廃線跡の門の奥へ、笑顔で駆け抜けて行く。
湊が自由になれたことを象徴したシーンだった。
私がバッドエンドながら、温かく穏やかな気持ちになれたのはそこが大きかったように思う。誰にでも手に入る「人を好きになる自由」を手に入れた湊。 最期に湊がそれに気づけた事が、湊が自分の人生を生き抜けたことの証で、本当に温かな気持ちになれたのだ。

ただし、湊とヨリは残念ながら土砂崩れによって亡くなったと思う。

ラストシーンで廃線跡に駆け抜けていく湊たちは晴天の中にいて、それは現実の世界とは異なるものだったし、最後に電車から飛び出す時も、二人はいつも出入りする扉ではなく開いていないはずの電車の正面から飛び出していくので現実ではない。
湊が中に居るはずの廃車体は横転しているし(母と保利先生が上から下を覗いている)、二人で聞いたはじまりの音と言うのは土砂崩れの音だった。

ヨリに関しては、自宅で亡くなっていたのではとも思う。
三幕の中で、二人で廃線跡地で遊ぶ中、草陰から貨物列車を眺めるシーンが挟み込まれている。それは宮沢賢治の銀河鉄道の夜を思い起こさせて、ヨリは亡くなっているのではと思う動機になっている。

このように悲しい結末であると考察するには十分な伏線がたくさん散りばめられていた。

けれど、ヨリと出会い、二人で過ごした日々、自分で自分を認めてあげられたことは湊にとってはよい人生だったように思えてならなかった。

怪物だ〜れだ?

あのCMを見て、私はこの映画はホラーかミステリーなのかと思っていた。
結局この「怪物だ〜れだ?」は湊とヨリの遊びの合言葉なのだが(インディアンポーカーのようなコミュニケーションゲーム)。
映画のタイトルの「怪物」、あの怖いCM、そして「怪物だ〜れだ」のこの3点により私は映画の冒頭より怪物を探すこととなった。怪物は湊?保利先生?それともお母さん?それともヨリくん…?

結局怪物は、私自身だと気づいた時には震えた。そして人は誰でも怪物で、誰かの怪物になりえてしまう事を悟った。

映画は湊の母、保利先生、湊の三人の視点によって三部構成になっている。
一部の湊の母の視点では、保利先生や校長先生、学校側の対応はまさしく得体のしれない怪物だった。
そして二部の保利先生の視点では、湊も湊の母も、同僚も、そして子どもたちも怪物だった。
三部の湊にとっては母の言葉は怪物の鋭爪であったし、自分自身の初めての感情も湊にとってはきっと自分を巣食う怪物だったのだと思う。人は誰かにとって怪物になり得てしまう怪物を自分の中に潜めている。そんな事を感じずにはいられなかった。

そして私は最初から怪物探しをしていた自分が何より怪物だったと気づいた時、感動した。
ホラーやサスペンスだという先入観で、怪物探しをし、思春期の難しさなんだろうと主観で決めつけ、観ていた自分。
自分がまさに怪物として映画に参加していたことに強烈に惹かれた。
この映画の一番の面白さだったように思う。

また「怪物だ〜れだ」ゲームも、「自分は知らない自分」「他人にしかわからない自分」を表現するスパイスとして効いてきた。
これはインディアンポーカーのようなゲームで、自分にわからないよう額に手札を当て、相手に質問をしながら自分の手札が何か当てるゲームで、

「ヨリだけが気づいていた湊」「湊だけがわかるヨリ」

自分の中に初めて現れた感情を怪物のように恐れた湊、それを知っていて受け止めたヨリを表現したシーンだった。


映画を通し、すべての人は怪物あり、その怪物は時に自分にも刃を向ける。そんな事を改めて思った。
私も自分が誰かの怪物にならないように、自分の言葉が怪物の牙にならないように考えながら過ごしていきたいと思う。

この映画の題材はクィアか?

「怪物」はカンヌ国際映画祭でクィア•パルム賞を受賞している。

確かにクィアの子どもが取り扱われているが、私がこの映画から一番に受け取ったことはそこではなかったので驚きがある。

これもまた主観だがクィアものとして扱われる作品を観る時「色々な指向の人がいる。どの人も平等で、受け入れよう」というマジョリティに対するメッセージを主張するものが多いように思う。そんな主観を持っている私だからか、怪物に対してクィア•パルム賞は違和感があった。

私はマジョリティの一人であると自認している。そんな私もこの映画を観て、心が慰められたのだ。

脚本家の坂元さんは「たった一人の孤独な人のために書きました。」と受賞にコメントを寄せている。

たった一人のために書いたというのなら、その人に伝えたかったメッセージはきっと「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない。そんなものはしょうもない。誰にでも手に入るものが幸せなんだよ。」なのだと思う。

誰にでもある「人を想う気持ち」それは、誰かと同じ形じゃなくてもよくて、自分から溢れるその気持ちこそが幸せの正体なのだ。

そして坂元さんの言う「たった一人」は世界中の誰かで、私もその一人だ。






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