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「ロングノーズ」

「私の受け持ってるクラスにロングノーズってよばれている子がいるんだよね」
 雨降りの朝、小さなベッドの中でユカコが吐息を吐くくらいの大きさの声で語り始めた。
 彼女は保育園の先生歴七年目、ベテランとは言わないが中堅どこになってきて時々仕事の話をする。

「ロングノーズ?最近の子供のあだ名は横文字か、洒落てんな」
 ボクは大抵彼女がこの手の話をする時、適当に合いの手を入れる、まったく返事もしないと彼女も気持ちが良くないだろう、ユカコにはいつも機嫌よく居てほしかった。
「なんでロングノーズってよばれているかって言うと、彼少し知的障害があって、友達や親しい人に鼻をこすり付ける癖があるのよね、それが原因か分からないけど、少し鼻が長めなの、だからロングノーズ」
 ユカコは寝返りをしてボクの方を向いて息がかかるくらいの近さで語り続けた。

「私も彼に気に入られていて、しょっちゅう鼻をこすりつけてくるんだよ、お尻とか腕とか、時々頬とか、とっても嬉しそうにこすりつけてくるんだよね、とても活発な子で少し目を離すとすぐ園外に出ようとしちゃうんだよね」
 ユカコはどことなく嬉しそうに話している、きっと保育園の先生という職業が板についてきて自信や誇りを持ち始めているのかもしれない。

「可愛いの、本当に天使みたいな表情をするんだよね、時々仕事行くのが嫌な時もあるけど、ロングノーズに会えることを想像するとやる気が湧いてくるの」
「へ~なんだか妬けるな、俺も鼻擦り付けようかな?」
 ユカコの顔を見ていたら、つい昨晩激しくセックスして満足していたボクの男性自身が大きく、固くなってきた、それを彼女の腿にあて擦りつけてみた。
「ちょっと~、それ鼻じゃないでしょ、もう…」
 ユカコは可愛い女だった、口ではそう言いながら根底の部分では拒否していない、ボクが擦りつけたものの存在を小さな右手で確かめ、興奮の度合いを盛り上げてくれる。
「このままもう一回しちゃおうか?」
 ボクはロングノーズにかこつけ鼻を彼女の頬や耳に擦りつけて言った。
 ユカコは黙ってコクっと頷いた…。

 ユカコとは去年の冬に出会った、家から一番近いレンタルDVD屋で偶然、ぶつかった、ぶつかって落ちた映画に見覚えがあった。
 マイナーな東欧映画のその作品は少しレアでこんなの借りる人いるのか?って内容で、映画マニアのボクはそういう作品が好きだったから、そういう映画を可愛らしい若い子がこんな片田舎で借りようとしていることに驚きを覚えた。

「これ、いいですよね、あんまりメジャーじゃないけど…」
 落ちたDVDを拾いあげて彼女に渡した時から二人のストーリーは始まった。
 それから程なくして彼女と毎週末会うようになった、ボクの自宅に集まって映画をただただ観る日が続いた。
 三本目のデレク・ジャーマンの作品を見終わった後軽いキスをした、四本目アレハンドロ・ホドロフスキーを見終わった後熱く抱きしめ、五本目パトリス・ルコントを観終わった後二人は男女として結ばれた。
 正式に告白しないまま、そのまま一年以上、週末の上映会と熱い情事は続いている。

 毎週金曜になるとユカコのことを想像した、残業していても会社の飲み会があっても自宅に帰ることを徹底した。自宅ではユカコが選んだ映画と彼女が作る素朴な家庭的な料理が待っていてくれた。
 そして、そんな週末を過ごせば過ごすほど、妻との関係をハッキリとさせないといけない、そんな思いに駆られた。
 ボクには東京に妻がいた。
 しかし、もう妻とのストーリーはとうに終わっていた…。
 単身赴任をいいことにもう半年以上妻には連絡をとっていなかった。

「大丈夫?今日は何だかずっと暗いけど…」
 季節は冬に移り変わろうとしている、また雨の降っている土曜の朝、ベッドの中でボクは様子がおかしいユカコを気遣った。
「うん…」
 彼女はやはり元気なく頷く。
 ボクは鼻を彼女の顔や髪に優しく擦りつけた、まるで野生の狼が子狼にするかのように。
 ロングノーズの話を聞いた日以来、鼻をこすり付ける愛撫はボクらの定番になっていた。
 ユカコは振り絞って何かを言おうとしている、その目は暗く、深い海の色をしていた、日本海側の女性の目はやけに深く、関東で育ったボクには新鮮だったと同時に何か得体の知れないもののようなある種の「恐れ」さえ感じていた。
「うん…昨日ね、ロングノーズくん亡くなったの…」
「え?」
 ボクは擦りつけていた鼻を止め、真顔で彼女を覗き込んだ。

「交通事故、自宅近くの国道でひき逃げされたみたい、松木団地の近く、昨日夜遅く園長から携帯に連絡があったんだけど、まだ信じられない…」
 彼女は涙こそ流してはなかったものの、終始暗い表情でうつむいている。
 彼女の深い瞳がさらに深くなっていく、ボクはそれを見つめながら何かに気がつく、ずっと忘れていたような、忘れてはいけないような、そんな何かに…。
 ボクの頭が急にキリキリと痛みだした。真っ白なストロボを終始焚かれたような光景が眼前に広がる。

 頭の中がぐるぐるとし平衡感覚を失う、フラッシュバックのような感覚、ボクは真っ白な世界の中ただ一人存在している、そんなイメージが覆った、ボクの心象風景だろうか…。
 昨日の夕方、仕事終わりの帰路、季節外れの大雨の中、ボクはユカコの待つ自宅に急ぐため国道を猛スピードでアクセルを踏んでいた、と同時にいつまでもほったらかしにしていた妻との関係をどうにかしないとけないという思いを巡らせていた。
 心がペラペラした低質な薄紙のようなまま無意識に無集中に危険な運転をしてしまっていたのだ。

 大雨の田舎道の国道、ボクは「それ」を轢いてしまった、ちょうどあの松木団地の近くだった。
 小さな土嚢のような塊、いやもしかしたら犬や猫の類かもしれない、自分ではそう思っていた。
 それが人間の子供だということに今始めて気がついた。
 いや、薄々気づいていたのかもしれない、瞬時にきっと人間など轢いてはいないという何らかしらの制御の思いが働いたのかもしれない。

 昨日の夜、駐車場にまだローンの残っている愛車のBMWを駐車した時、フロント部分の凹みを確認したことは覚えていた、大きな凹みだった、大変なことをしてしまったという気持ちの記憶が少しある、そしてその後急に何かのスイッチが切れるような、白熱電球が寿命を全うし切れるような音がしボクはそれまでの前後の記憶が途切れた。
 ロングノーズを轢き殺したのはボクだ、確信は日本海の深い海の色より濃厚になった。

 何かにつかまりたい、そんな気分でボクはユカコを引き寄せて少し強引なくらいに抱いた。
 怖かった、恐怖から逃れるためにユカコを激しく愛撫した、鼻を使ってユカコの身体中全部を撫でた。
 これが最後だと、そんな思いでボクは彼女の中で果てた…。

 バッドエンドで終わる映画も悪くはない、そんな風にユカコと話したのはいつのことだったろうか?ボクらのストーリーはこのままバッドエンドで終わるのだろうか?果たして…?もう考えまい。

 ボクは優しい、なんにも知らないユカコの腕の中で鼻を擦りつけながら子狼のように眠った…。



*オールフィクション

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