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賢者のセックス / 第12章 尊厳と意味論 / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

ベント(性癖、あるいは「変態」)

 シャワーを浴びてリビングルームに戻った僕たちは、実験の結果について真剣に話し合った。ソラちゃんの表情はバリキャリ魔女のものに戻っていた。僕はそれが嬉しかった。いつものソラちゃんだ。そのバリキャリ魔女が首をひねって考え込んでいる。

「今回の実験結果は解釈が難しいね。やはり君一人では風景を見ることは出来ない、と言えるんだろうか?」
「少なくとも一人でしている時には難しいと思う」
「じゃあ、私が一緒に自慰をしていた時は? あれは物理的接触は音声だけだったよね」

 ソラちゃんの目は真剣そのものだ。

「何故、私が自慰を始めた途端に君は感じるようになり、風景を見たのかな。不思議すぎる。君は私が自慰を始めたのにいつ気づいた? 風景が見える前? 後?」
「後」
「それまでずっと目は閉じていた」
「うん」
「音かな? 出来るだけ声を出さないように気をつけてたんだけれど」

 そんなところまで考えていたのか。ただただ感服する他ない。

「音も気づかなかった。だから、視覚や聴覚じゃないと思う」
「じゃあ、何なんだろう?」

 僕たちはお互いの顔を見た。二人とも、何も思いつかなかった。

「もう少しじっくり考えてみる必要があるかな」

 そう言いながらソラちゃんはモニターに視線を移した。

 僕はソラちゃんの横顔を見つめている。

 しばらく沈黙が続いた。パソコンの裏でファンが回っているかすかな音。窓の外からは時折、水しぶきを上げて走り去る車の音が聞こえる。

 ソラちゃんが一瞬目を閉じた。それから突然こちらを向いて僕に尋ねた。

「……君は『ベント』という戯曲を読んだことはある?」
「弁当?」
「ベ・ン・ト! 伸ばさない! 知らないの? 一九七九年にマーティン・シャーマンが書いたお芝居だよ。初演はロンドンのロイヤルコート。名門中の名門劇場。シャーマンは一九八〇年にこの戯曲でトニー賞にノミネートされてるの。映画にもなったし、日本でも何度も上演されてるし。役所広司や佐々木蔵之介が主演してたよ」

 いきなり文学モードに切り替えて殴ってきた。でも僕は文学モードのソラちゃんも好きだから嬉しい。それどころか、最近では文学で殴られるのが気持ちよくなりつつある。少し危ないかもしれない。

「それはどんなお話?」
「悲劇だよ。ナチスの同性愛者迫害がテーマでね。主人公は最後は強制収容所で死ぬ」
「うわ……」
「名作だから。こんど戯曲を貸してあげるよ。それでね。物語の終盤、強制収容所で主人公はホルストという男と知り合う。ホルストも同性愛者だよ。でも強制収容所の中だから、当然、セックスなんて出来ない。わかるよね?」
「うん」
「でも二人はセックスをしたんだよ」
「どうやって?」
「ナチスの強制労働で、二人は果てしなく石を運ばされるの。休憩中も並んで立ったままで、お互いの顔を見ることすら許されない。だから二人は言葉でセックスをする。今で言うフォーン・セックスとかセクスティングみたいにしてね。私が初めて『ベント』を見たのは五年前に佐々木蔵之介と北村有起哉が主演した世田谷パブリックシアターでの公演でさ。その時このシーンを頭では理解出来たし、理解したつもりになっていたんだよ。でも、さっきわかったんだ。私はわかっていなかったって」

 ソラちゃんは目の前のキーボードを見つめながら、話し続けている。

愛と尊厳

「『ベント』のテーマは、愛と尊厳だと言われている。私もそう思う。じゃあ、愛と尊厳をテーマにした戯曲のクライマックスが言葉だけを使ったセックスシーンであるというのは、何故なのか。ただ愛を伝えるのであれば、愛してるという言葉を使えば良いんだよ。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の少佐みたいにさ。そう思わない?」
「そう、なのかな?」

 以前に僕が一度だけ送信した「愛してます」という言葉は、ソラちゃんに何を伝えたのだろう。ソラちゃんの話は更に続く。

「問題は尊厳だと思う。これは明治時代に英語のdignityの訳語として作られた言葉でね。例えば一八九〇年に若松賤子がバーネットの『小公子』を翻訳した時に使っている。その意味は、人としての重要性、そして価値。それがあるからこそ、自分は自分を尊重し、他人にも尊重してもらうことが出来る。そうだよね」
「うん。そうなんだろうと思う」
「私はさっき、君が一人でしているのを見て、君の尊厳を感じたんだよ」
「えっ? あの、ええと、僕の……オナニーを? ですか?」
「そう。君は私のためにオナニーをしてくれている。そんな君は私にとっては極めて重要で、かけがえのない価値がある人だと気づいた。君の尊厳だよね。私はそんな君とセックスがしたくなった。……君に触れられたいと思った。君に触れたくてたまらなかった。でも君に触ることは出来ないんだ。君の献身を台無しにしてしまうから」

 ソラちゃんは一つ一つの文章の形を確かめながら話しているように見えた。

「だから私は、君に愛撫されているところを想像しながら、自分のあそこを触ってみた。そうしたら、びっくりするくらい濡れていた。とても嬉しかった。これは君の愛撫で濡れた膣だと思った。私は離れていても君に愛撫されていた。私は、君が気持ち良くなってくれることを祈りながら、自分を愛撫した。君の指の代わりに自分の指を使ったけれど、それでもあれは君の愛撫だった。私たちはさっき、セックスをしてたんだよ、きっと」

 そこまで話すと、ソラちゃんは僕を見て微笑んだ。

「身体が繋がりあえることは、人としての尊厳の大事な一部なんだね。人は、大切な相手とは言葉だけでなく身体でも繋がるべきだし、それを妨げてはだめなんだ。それは誰かの尊厳に関わることだから」

 ソラちゃんの話は、すぐに全部を理解することは出来なかったけれど、とても大事なことを言っているように思えた。そうだ。たしかに僕とソラちゃんがお互いを見つめたとき、僕たちの身体は繋がっていた。だから僕の精液はソラちゃんのところまで飛んでいったのだ。あれはソラちゃんの力だ。そう考えた途端、僕は嬉しくなった。

 長い説明を終えたソラちゃんは、ゲーミングチェアの背もたれによりかかりながら目を閉じた。ゲーミングチェアがグッと後ろに傾いた。ソラちゃんが小声で囁くのが聞こえた。

「こっち来て」

 手招きされて近付いていった僕の背中にソラちゃんは目を閉じたまま両腕を回し、ぐいっと引き寄せた。そのまま僕たちはお互いの唇を交互に甘噛みした。

 五分経った。ソラちゃんが囁いた。

「でも、やっぱり君のを入れて欲しいかな。ね、今夜はいっぱいしようよ」

 結局、僕たちは夜までそれを待てなかった。

封印

 翌日、パジャマ姿のソラちゃんは僕の用意したイングリッシュブレックファストをあっという間に平らげると、くすんだ赤色のニットのワンピースに着替えて書斎にこもってしまった。といっても、今までのように突然書斎に立てこもってしまったわけではない。昨日の実験結果についてじっくり分析して、小説のプロットや設定を考えるのだという。

 それでも僕の顔には何かしらの不安のかけらが浮かんでいたのだろうか。ソラちゃんはニコリと笑って僕の方に戻ってくると、そっと唇を僕の頬に触れさせて言った。

「夜は君と一緒に寝るよ。晩ごはんは中華料理が良いな」

 ソラちゃんがいつも付けている明るい香水の匂いが、ふわりと僕の右頬の周囲を漂っている。この瞬間の頬の感触をデジタルデータで保存しておけたらどんなに良いだろう。僕は最低でも三日に一度、この瞬間を再生するはずだ。

 それから僕は洗濯と掃除をして前日の洗濯物を片付け、ソラちゃんの昼食用にサンドイッチを用意して買い物に出かけた。大崎駅に向かう途中の目黒川沿いの遊歩道で、マスクをつけて走っている人と僕は何度もすれ違った。僕たち二人だけが乗り込んだ小舟の航海は、まだまだ続きそうな気配だ。

 お互いの身体を目当てにして始まった共同生活は、九ヶ月目に入っていた。この間、何度か気まずくなったことはあったけれど、僕たちは一度も喧嘩らしい喧嘩をしなかったし、僕に関して言えばこれまでに付き合ったどの女の子よりもソラちゃんのことが好きになっていた。セックスをしている時の自分の身体のことも含めて、これだけあらゆることをさらけ出せる人はいなかった。

 そんなソラちゃんが恋人でも配偶者でもなく「ルームメイト兼セックスパートナー」なのは、とても不思議なことに思えた。多分それは、ソラちゃんにとっても同じだったと思う。ソラちゃんも僕のことを好きだと言ってくれたし、大切だとも言ってくれた。さっきのキスだって、半年前どころか三ヶ月前でもあり得なかっただろう。僕たちの距離はどんどん縮まっているのだ。

 では、何故、僕たちは恋人同士になれないのだろうか。僕はソラちゃんに恋人と呼ばれたいし、ソラちゃんを恋人と呼びたい。でも、何かがそれを妨げている。それが何なのか、僕はずっと考え続けてきたのだけれど、最近になって何となくわかってきた。

 小説。

 小説を書くこと。きっと、いや、間違いなくこれだ。

 ソラちゃんがこの小説執筆プロジェクトにのめり込めばのめり込むほど、僕たちの距離は縮まってきた。同時に、ソラちゃんが僕に対して作る透明な壁は厚く、高く、硬くなっていった。

 僕たちの心は、僕たちの肌と僕たちの粘膜を介して強く深く繋がっていると思う。その一部は今や溶けあってすらいるのかもしれない。でも、言葉はまだ僕たちの心をそこまで強く繋げてくれてはいない。

「愛している」と「恋人」。

 この二つの言葉は、僕たちがスマートフォンを介して交わすメッセージの中で一度だけ使われた後、ずっと封印されたままになっている。理由はわからない。

君の欲望

 夕方、僕が書斎を覗きに行くと、ソラちゃんはノートパソコンの前で、まさに文字通り頭を抱えていた。床には付箋の入った何十冊ものの本が積み重ねられ、ライティングデスクの上には文字や線や図形が乱雑に書き殴られたノートが広げられている。画面にはスプレッドシートとテキストエディター。

 リクエスト通り中華料理の準備が出来たことを伝えると、ソラちゃんは僕の方を振り向いて嬉しそうな笑顔を見せた。

 夕食は豚バラ肉と人参と青梗菜とウズラの卵で作った中華丼、エビと玉ねぎとレタスのサラダ、それに紹興酒を添えた。デザートは成城石井で買ってきた杏仁豆腐だ。食事中の話題は最近やっと面白くなってきた仮面ライダーセイバーについてだった。「ワイドスクリーン・バロック方向に走り出してるね」というのがソラちゃんの意見だったけれど、また知らない言葉が出てきたぞというのが僕の素直な感想だ。

「そうそう、昨日、二人で自分のものを触りながらしたよね」

 いきなり話題が変わった。食後の鉄観音茶をすすりながら、ソラちゃんが真剣なまなざしで僕を見ている。ちょっとドキドキする。

「あれ、何て言うのかわからないけど。mutual masturbationで良いのかな。相互オナニーって訳すんだろうか」
「どちらでも結構ですから、とにかく話を進めてください……」

 同じ失敗は二度繰り返したくない。この付近には地雷原がある。

「ともかく、あれね。あの解釈で今日はずっと悩んでたんだよ。それと意味論」
「意味論、ですか?」

 うっかりすると先生の講義を受ける学生のような口調になってしまう。

「言葉の意味について研究する学問ね。フォーン・セックスとかセクスティングってあるじゃない。電話やテキストメッセージで性的な会話をしながら自分の性器を触るやつ」
「はい、ありますね」
「あれはセックスって言葉が入ってるくらいで、セックスの一種だとみんな思ってるんだよね。少なくともあれを自慰とは呼ばないわけでしょ。なら、同じ空間にいてお互いの自慰行為を見せ合うのは、セックスと呼ばないんだろうかって思ったの」

 僕はさり気なく席を立って、空いた中華丼とサラダの食器をキッチンに下げた。ソラちゃんの話は僕の背後で続いている。

「私は誰かの肌に触れていないと濡れないから自慰が出来ないって前に話したでしょ。だから自慰ってどういうものか本当にわからないんだけど、君と触れ合っていないのに昨日濡れたのは何故だろうってずっと考えててさ。多分これかなって思ったのは、君、私で射精したい、私を見ながらイキたいって言ったよね。セクシー女優とかじゃなくて」
「うん。言った」
「つまり私は昨日、君の欲望の対象だったわけだ。こうなったらもう素直に言うけど、私は好きな男に求められている。そう考えた途端に濡れてきた。それで私は君が欲しい、君に触れられたいと思いながらクリトリスを触ってみたわけ。そしたら驚いたことに、気持ち良かったんだよ。君は?」

 僕はソラちゃんがいきなり口にした「好きな男」という一言に動転して、反応が少し遅れてしまった。

「あ、うん、そうだね。ええっとね。ストレートに言うと、ソラちゃんと抱き合いたいと思っていたし、ソラちゃんの中に入れたいと思ってた。ソラちゃんの中でイキたいって。僕の頭の中にはソラちゃんのことしか無かったよ」
「セクシー女優であれするときは違うの?」
「そうだなあ。セクシー女優さんは綺麗だなと思うけど、抱き合いたいとかずっとキスしていたいとか思ったことはないような気がする」
「なるほどね。やっぱり違うんだね。そうしたらさ。ちょっとこっち来て」

 ソラちゃんはコンピューターデスクの前に僕を連れて行って、先週作った四象限のグラフを見せた。

「お互いに相手のことを考えてしてたんだから、あれは私たちのコミュニケーションだったって言えると思うんだ。肌は触れ合っていないから、君優位でも私優位でもないコミュニケーション。とするとx軸の真上の、この辺かな」

 ソラちゃんの指先の左右にそれぞれ「植物」「水」の文字がある。

「で、何が見えたんだっけ?」
「どこかの谷戸で、草がいっぱい生えてて、草の間を水が流れてた」
「ほら、ぴったりだ」
「本当だ!」

「だから、昨日も言ったけど、あれはやっぱり私たちのセックスだったんだなって思うんだよ。mutual masturbation, 相互オナニーじゃなくてね。きっとフォーン・セックスやセクスティングって名前を考えた人たちも、やっぱりこれはセックスなんだって感覚があったんだろうね。だってあれしてる間、相手は見えないわけでしょう? 繋がってるって感覚は相手から次のセクシャルなメッセージが送られてくるかどうか、自分の送ったメッセージで相手が感じてくれるかどうか、そこにかかってるはずでさ。コミュニケーションとしては切実だよね、きっと」

 ソラちゃんはごく真面目な顔である。

「それでね。君に改めてお礼というか報告というか、したいんだけどさ。今話したようなことを考えてたら、これはやっぱり君でもなく私でもなくて、あの街は私たちの夢を見てるに違いないって思えたの。だって、君、最初は私が自分で触ってるって気づいてなかったのに風景が見えたんだよね」
「そうだったと思うよ」
「それってすごい絆だと思うんだよ。私たちの間にある絆ね。君と私は離れていても繋がることが出来るんだ。君と私の心、君と私の身体が。あれはもう、街がどこかで私たち二人をずっと見ていて、あっ、この子たちは今セックスしてるって気づいて、谷戸の風景を送ってきたんだろうなって。だから、やっぱり街が見ているのは、私たち二人が主人公の夢なんだなって思った。君一人でもなくて、私一人でもなくて、私たちが主人公」

 ソラちゃんが微笑んだ。

「全部、君のおかげだよ。君が先に立って進んでくれたおかげだ。ありがとうね」

 その夜、キッチンとリビングルームの片付けを済ませて僕がベッドルームに行くと、既にソラちゃんは熟睡の中にあった。朝からずっと小説のことを考えていたのだから、きっと疲れたのだろう。僕は暗闇の中でソラちゃんの寝顔を見つめていた。喉の辺りがかすかに動いている。僕は自分の唇をそっとソラちゃんの唇に近づけたけれど、何となく気後れを感じたので、僕の唇はソラちゃんの右手の甲に少し触れただけで終わった。

 翌日から、ソラちゃんの頭の中の余白は全てが小説を書くことで占められるようになっていった。少しでも隙間の時間があれば資料を読み、ノートを取り、エディターを立ち上げて文章を書く。書斎はまさに書斎となり、僕はダイニングテーブルをソラちゃんの仕事用のコンピューターデスクから離れた場所に移して、そこで仕事をするようになった。

 こうしてソラちゃんが小説を書くことに集中すればするほど、僕たちのセックスは優しく穏やかなものになっていった。時には僕のものをソラちゃんの中に入れたまま、二〇分でも三〇分でも動かずに抱き合っていることすらあった。ソラちゃんはそれを求めているということが、僕には何故かわかっていたのだ。僕自身、性器と性器が擦れ合うことによる単純な快感よりも、闇の中で僕たちの肌と粘膜が触れ合ったまま境界が静かに溶けていくような感覚を、より貴重なものと思うようになっていった。最後に僕はゆっくりと腰を動かして精液を放つ。僕が達している間、ソラちゃんは僕を優しく抱きしめてくれる。静かにセックスを終えた僕たちは、いつも手を繋いで眠りに落ちた。

 僕の賢者タイムは、この頃にはあるのかないのかわからないほどに短くなっていた。

 とはいえ、こうして身体が深く繋がれば繋がるほど、ソラちゃんを恋人と呼べないことの哀しさは僕の胸の中で棘になり、鋭い痛みを生み出し続けた。

 でも、僕に出来るのは黙って待つことだけなのだ。それは、以前に別の女の子との間で経験した幾つかの失敗から何となくわかっていた。

(2021/1/3更新。次の更新は1/4です)

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