見出し画像

第2回「悩みが理解されにくい」まとめ


こんにちは、本田です。
6/21(日)に開催した、第2回名前のないつどいについて、会の内容を報告させていただきます。

*当日の会のながれ
ボードゲーム→自己紹介(紙に書いて回し読み)→テーマについて語り合い

画像1

賀茂川の河川敷で行いました🍃

今回は「悩みが理解されにくい」というテーマでしたが、以下の4つの話題が出ました。それぞれについて簡単な要約と、それに対する感想を書いていきたいと思います。


① ちゃんと説明する前に対話を却下される

<要点>
自分の思想を理解してもらうために説明しようと思っても、「思想がちがう」という理由で対話を却下されてしまう
例:SNSでブロックされる など

自分の話を相手(聞き手)の解釈で
勝手に判断される

対話はエネルギーが必要で疲れるため、
納得したフリでやり過ごさざるを得ない

↪︎対話はお互いが前向きな姿勢でないと続かない

<感想>
 対話というものが成り立つためには、前提として、お互いがお互いを理解しようという姿勢を取る必要があるのではないかと思います。特に注意しなければならないのは、自分の価値観で相手の話を解釈してしまうこと。例えば、「成長意欲を持って生きることが人間として望ましい姿だ」という価値観を自分が持っている場合、相手が「これからどうして生きていけばいいか分からない。」という話をしたときに、「相手が成長意欲を持って生きていくにはどうすればいいか」ということを考えてしまい、そのためのアドバイスを伝えようとしてしまうかもしれません。ただ、この場合、別に相手は成長意欲なんてどうでもよくて、ただ目の前の現実を生き延びるためにどうすればいいかを話し合いたかっただけ、という可能性もあるのではないでしょうか。こんな感じで、一見対話しているように見えても、案外、一方的な価値観の押し付けのようになっていることも少なくないのではと思います。
 また、思想というものにもいろいろあります。分かりやすい例で言えば、政治の「右」とか「左」とかですね。もちろん、自分の意見を持ち、それを表明すること自体は大事だとは思うのですが、思想に「取り込まれ」ないことも大事なのかなとも思います。例えば、自分は「左」だから、ちょっとでも「右」を彷彿させるような考え方は問答無用で聞きません、というのは違うのではないかと。一見「右」っぽい考えがよくよく聞いてみると「左」に通ずる部分もあったり、その逆もあったりすることもあるかと思います。
 ただ、だからといって僕は「中立」になることを支持しているわけではありません。(むしろ「中立」を自称する人はあんまり信用していません笑 だいたい皆どこかに偏ってるもんだと思っています。)どちらかと言うと、一見自分と相容れなさそうな考えにも、自分の価値観に通ずるものがあって、それを聞くことで自分の思想が深まる、ということもあるのではないか、と思っています。なので、「偏りを洗練させていく」のが良いのではないかと僕は思っています。
 「対話」っていう言葉はいろんな場所で簡単に使われていますが、実際にはかなり高度なコミュニケーションなのではないでしょうか。まずその一歩として、自分をまっさらな状態にして、相手の話を聞く姿勢を取ることから始まるのではないかと思います。


② 家族と適度な距離を保ちたい

<要点>
・家族は自分に理解を示そうとしてくれるが、ほんとうは距離を置きたい
・反対に当事者研究はみんな第三者的だから安心して話せる

<感想>
 距離が近ければ近いほど、人間関係はよりかけがえのないものとなっていきます。そのため、そこでしか生まれない対話もあれば、そこでしか生まれない抑圧や暴力もあるのではないかと思います。
 特に、「仲の良い家族」ほど、その間には理解されがたいような緊張感が生まれることもあるのでしょうか。良かれと思って子どもを徹底的に守ろうとするが、実は子どもの側は親から突き放されることを望んでいる、というケースもあるかと思います。距離が近いからこそ、いろんな忖度が働いてしまい、反って本人の真の望みを汲み取れなくなる、ということは少なくないのではないでしょうか。
 特に、悩みの相談を受けたときに、その人のことを大事に思うあまり、必死にその悩みの解決策を考えてしまうが、当の本人は解決を望むわけではなく、ただ聞いて欲しいだけだった、ということもあるでしょう。でも、大事な人だからこそ、「救ってあげたい」と思うあまりあれこれ考えてしまう。聞き役に徹することがむしろ無力感に繋がるということもあるのではないかと思います。
 だからこそ、自助会や当事者研究会のようなある種の''ドライ''さがある空間の方が、そういった情に縛られず、思いきって自分の本音を話すことができる、という人も少なくはないのではないでしょうか。第三者的な立ち位置の人の方が、より客観的な視点で人の話を聞くことができる、ということも起こりうるかと思います。
 では、距離が近い場合はどうすればいいか。これは僕にとっても課題ではあるのですが、目の前の人を「他人」だということを今一度思い出すことが大事なのかなと思います。身近な人ほど自分と同一視してしまいやすく、それがお節介な救済意識を産み出してしまう可能性もあるのではないかと思います。
 ただその一方で、大事な人のことを想って自分なりに考える、ということ自体は悪くないとも思います。要は伝え方の問題で、相手が求めていることへの理解は示しつつ、自分はこう考える、っていうのを伝えることが大事なのかなと思います。距離が近ければ近いほど、その距離に甘えない接し方をしていきたいと思います。

③ 成功者の経験談は参考にならない

<要点>
・成功者の経験談「なんとかなる」ということばで締めくくられることが多い
→自分の悩みを軽く捉えられる

・成功した話ばかりではなく、うまくいかなくても道はあるのか?ということを教えてほしい

<感想>
 特に就活の話になると、大学内では、「内定をもらった人」のサクセスストーリーは腐るほど提供されますが、それ以外のモデルケースはなかなか提供されることはありません。もちろん、そこにはいろんな要因(新卒で内定をもらえなかった人には声をかけにくい、卒業生の進路の後追いができていない等)があるとは思いますが、あまりに似たような話ばかりだと、「そこから外れてしまったら自分の人生どうなるのか」という不安に苛まれることもあるのではないかと思います。実際にはいろんな生き方があるとは思うのですが、その生き方の多様性がぼかされ、道が限られているような錯覚をおぼえます。
 まあ確かに、大学新卒で就職するのと、それ以外の道では経済的な格差が生まれやすいのかな、とは思いますし、そのこと自体も問われるべき問題であることは否定しません。また、いわゆる人生の「正規ルート」みたいなのが漠然とこの社会に存在し、そこから外れた時点で「負け組」扱いを受けるようになるという現状については、一度向き合って考え直しても良いのではないかと思います。そういう意味では、安易に「お金だけが全てじゃない」みたいなことを言うつもりはありません。これを言うと下手すると現在の格差社会を甘んじて受け入れろというメッセージにも繋がりかねませんからね笑
 ただその一方で、じゃあ「正規ルート」で生きることが幸せなのか、と言われるとそうではないのかな、とも思います。運良く「正規ルート」に入れた場合でも、そこに上手く馴染めない、ということもあるかもしれませんし、むしろ外れたことによって、過ごしやすい環境に辿り着けることもあるかと思います。「正規ルート」というのは、そこに適応できて初めて「安定」を得られるものなので、正規ルートに入れば安定、というのも一種の幻想とも言えるのではないでしょうか。
 そういう意味で大事なのは、多様なモデルケースがあるということ、それによって正規ルートに込められた「勝ち組」幻想を乱すこと、なのかなと思います。まあ大前提として、もっと多様な生き方を尊重するような仕組みを社会が提供してくれ…という思いもありますが笑

④ 身をもって理解されている感じがしない

<要点>
社交不安的な症状は心を許している人のまえでは安心するためあまり出ないので、知識としては理解してくれていても実感をもって理解されている感じがしない

実感をもって理解してほしいと
思う相手ほどあまり症状が出ない

一見そんなふうに見えない

実感をもって理解されている感じが
しないために不安になる

孤独感

<感想>
 この話は社交不安症のことについてのものなのですが、心を開いている人ほど症状が出にくいので、分かってほしい人に分かってもらえない、というのはなるほどなという感じでした。実際、僕も、慣れている人が相手の時は比較的吃音が出にくいので、なんとなく分かるような気がします。本当に調子が悪い時の自分を知られていないので、身近な人ほどあんまり自分のしんどさを理解してもらえてなさそうだな、と思うことがあります。
 ここでもう一点、「身をもって」というのも重要なワードですね。ここには、身体の障害とは異なり、精神の障害は疑似体験が難しい、というのもあるのではないでしょうか(まあ実際には身体の障害も、完全な疑似体験はできないとは思いますが)。
 個人的に精神的な症状というのは、各個人の身体に出るものだと思っています。例えば、人前に出ると赤面や動悸が起こる、特定の場面になると無意識に押し黙ってしまう、というのはその人の身体で起こることだし、不安や抑うつ感といった感情的な症状も、結局その人の身体の内側で起こっていることです。ということは、その人が経験している症状というのは、その身体の持ち主である、その人自身にしか経験しえないものなので、その人の症状を疑似体験するのはなかなか難しいということになります。強いて言うなら、似たような症状を持っている人ならば多少は共感できるかもしれませんが、その共感というのも、あくまで想像の域を越えることがないため、「本当に共感しあえているのだろうか」という疑念が晴れないこともあるのではないでしょうか。
 経験を分かち合えないことは孤独感につながります。もちろん、人間は皆どこかで孤独な部分を持っているとは思いますが、それが耐え難く不本意な孤独感なのか、自ら選んだ「大切な」孤独なのかによっても話が変わってくるでしょう。後者ならともかく、前者については、経験の分かち合いというのが孤独感を解消する上で重要になるのだと思います。
 では疑似体験できない経験を分かち合うにはどうすれば良いか。言語化というのも一つですし、それ以外でもいいですが、とにかく何らかの表現を通じて、経験を伝えること、そして何より大事なのが、その表現を受け手側が「本気で」汲み取ろうとする姿勢を取ることなのかなと思います。まあ言うのは簡単ですが、これって結構難しいことだと思います…


おまけ「理解されにくいということが理解されにくい」

 今回の会ではあまり深まりませんでしたが、個人的に話したかったこととして、「理解されにくいということが理解されにくい」というものがあります。これはどういうことかと言うと、一見理解されやすそうに見えるが、その本質的な部分は案外理解されていない、ということです。
 分かりやすい例でいえば、安易な共感を受けることが挙げられます。僕は吃音で悩んでいると話すと、よく「自分も人前で話すの緊張するから分かる」と返ってくることがあるのですが、僕にとっては本質はそこじゃないんですよね笑 どちらかというと、日常の至るところで吃音が弊害になることがあって、その中を毎日生き続けることに困難を感じているのであって、別に人前だけがダメというわけではないのです。
 そういう意味では、共感というのも、案外慎重にならなくてはならない部分なのかな、と思います。一歩間違えると、相手の悩みを「自分が理解可能なもの」に押し込めてしまい、苦しみを自分流に解釈してしまう恐れがあるからです。自分の理解が及ばない悩みが存在するということは、常に頭に置いておいた方がいいのかなと思います。


まとめ

 今回は総じて「対話」というものを考えさせられる会になりました。大事なポイントとしては、「まっさら」になることだと思います。つまり、一度自分の価値観や考えの偏りを自覚して、なるべくそれに流されないように相手の話を聞く。お互いがそのような姿勢をもつことを前提に、考えを共有する。この流れが「対話」のポイントなのかなと思いました。
 少人数ではありましたが、かなり内容が深まって楽しかったです。ありがとうございました😄

おかゆの振り返りイラスト

画像2

賀茂川の河川敷の木陰はちょうどよい気温で、風がきもちよかったです


次回
8月下旬に開催予定です。テーマは特に設けません!
とある場所を利用して、語るもよし、ボドゲするもよし、寝るもよしのフリーの会にしようと思っています笑

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?