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君たちはどう生きるか(※すごくネタバレ)

感想書かせてください!

今回、駿が宣伝しなさ過ぎて、私の周りの人には

「あー、君はどう生きるか?」
「あのー、お前は誰だ?」
「お前は何だ?」
などなど言われていました。
(おまえはなんだ?)

でも結論、どれも遠くないかも!

今日はこの映画の感想をダラダラ書きたいのですが、次の行あたりから文体が熱く(様子がおかしく)なりますから、気をつけてください。

また、言うても9割9分が私の妄想で、しかもネタバレとバラバラ解剖が行われるので、まだ見たくない人は見ないでください。
作品の楽しみ方は十人十色ですが、私個人的には「「絶対まず自分の五感で観てきたほうがいいです」」と言いたいな!!

こういう映画体験、しかも世界の巨匠が繰り出した作品でできるのはやっぱり貴重だと思います。
私の御託でその機会を逸するなんて、本当にもったいない!
(これでも、最初は紙のノートに書き散らかすことで、ネットでわめくのを我慢しました。)


そもそもね、あの非言語的で普遍的、原始的な落とし込まれ方をしている作品を
言葉にするのはとても限定的な営みであり、
無言で余韻を抱えていられないのは幼稚で、感性の貧しいことかもしれず、
野暮なことかもしれないのは百も承知の上で、がまんできないので書きます(がまんできない!)

(私は、私が何に感動したのか、傷ついたのか、悔しく思ったのか、
そのとき可能な限りの言葉にするのが好きなタイプだと思います。)

1.この作品の特徴だと思ったところ

・基本的に台詞は最小限、説明は最小限。
 言い放たれる台詞に無駄がなくスリムなので、シーンごとの要点として印象に残りやすい。
・見る人の思考、魂、専門性、世界の見方がそのまま反映される。
・外的世界/内的世界の密接さ(同一性)、相互関係によるに人間の展開を描く。現実世界と感覚世界を往ったり来たり。
・ヒントやモチーフがあちこちに見られる。
・なんかもう「宮崎駿」というタイトルでもいいような気がした。
・宣伝戦略戦線へのアンチテーゼ。
 一生かけて積み上げた実績がある駿だからできた(やることの意義の大きさを誇れる)、激パンク・ロック・ゲリラ公開からの
 満員御礼。あまりにも反骨イケおじい。
・俗世のマスメディアを一切介在させないことで、客は映画館で初めて作品に没入することとなる。
誰の力も言葉も感性も借りずに「たった一人で」、どう生きるか問いかけられる体験を得、終劇まで孤独に耐えなければならない。超情報化社会、スピード社会、言葉や価値観の流行り廃り、「インフルエンサー」の発した言葉・商品にしたがうことに、
 何の痛みも疑いもない風潮、日々流れゆく言葉と文化、消費者の主体性の無さが浮き彫りになる。
・自分でストーリーや感想を見つけさせるこの公開の仕方自体がまず、「君たちはどう生きるか」。
・骨の髄まで作家で表現者のおじいさん(エリクソンのライフサイクル理論でいう老年期の御仁)に叩きつけられし圧倒的挑戦状。

→”ポスター一枚”以外の事前情報を公開しないと知った時点で、この挑戦に鳥肌が立ったので(鳥だけに)、
 一切の前情報を断ってTOHOシネマズに足を運びました。
 情報に出くわさないように暮らし続けるのがつらかったので、早めに見に行きました。
 直ぐに観に行った人たちが、皆ネタバレせずにかみしめていたのがすごいと思うし、
 やはりそれは駿への敬意だと思うし、関わっている全員に感謝してる。

2.ざっくり、私の五感と脳で観た内容

◆全部が駿 とにかくすべての人物とモチーフ、景色が駿の表象にしか見えなかったので終始その視点で見た 
◆少年から大人への内的・身体的な展開(「わたし」への渡し)
◆自己との対峙・受容
◆世界(内外ともに?)が維持されることにおける、世代性と奇跡性
・母の艶めかしく原始的な女性性、父の猛々しく残忍性も孕む男性性の受容
 (どちらも不完全的で複雑だけど、強さの象徴でもある)
・世界を構成する多くの因子としての雑音のような自己
 ≒軸となる理想我と、不本意な、でも無視しては心身が推進しない多くの雑多な自己
・大人になることの一つの定義=生命のサイクルへの加担(己で命を維持し、己から命を輩出する営みへの参加)
・生の本能/死の本能 この表裏一体に絶望し、再び希望を見出すことが、生命のサイクルに参加する一つの条件。
 (生を知ることは死を知ること。例外なく全員が向かう先が死。)
・男性性と女性性の 原始的な差異および依存関係・統合性
・年長者が積み上げたものもいつか手放し、託すしかないという諦観

★キーになってた数字★
・7からの13。両方素数。両方、6の倍数+1。
 7は多分今の世界。7人のおばあさん、7つの積み木。よき数字、よきもの、既存のまなざし、ルール、安定。
 (聖書の7曜日、7大陸。また、7不思議、七転八倒、七転び八起きなど、マジカルナンバー7(人間の最大許容量:数えられる世界)。)
 13は7の2倍じゃない、けど12より大きい。
 12で一周のものってたくさんある。7を超えた価値観や枠組み、世界(12)をさらに超える13。
 (12時間、12カ月、1ダース、十二支、黄道12星座、オリンポス12神。)
 (7が広くラッキーセブンなのに対し、13は不吉な数字と言われる文脈もある。:聖書:13番目の弟子、ユダ。13日の金曜日。
 神話などで、12を乱す13番目。)

3.ウキウキしたところ(無数)

・バスの行先は「大沼町」だった(たしか)・・・トトロや千と千尋と似たやり口だと思った。
 沼、沼地って、「底なし」「足を取られる」「不穏な」「危険な」「死に繋がる場所」。でも、稲作などができる、命が芽吹く場所。
・新しいお母さんの登場シーンには、紅の豚の みたいな母性と女性的魅力を感じた。
・飛行機のガラスが大量の王蟲みたいだった。戦争、個々の意志と無関係に隊をなして侵攻するところが似ている。
・基本覇権的で、裕福な家のようだったので、物質的な貧富に関係なくやってくる成長の過渡期、
 あるいは恵まれているからこそ内的な深みに入りやすい現代への投げかけにもみえた。
・沼地は思い出のマーニーの舞台にも見えた。(非現実との境目のような。)
・アオサギは渡り鳥だから、今居る場所(純然たる少年の自分)から異なる場所へ連れていく存在だと思った。
・そのアオサギは、未知なる気づきや受け入れがたい(醜い・狡猾な…)自己そのものでもあり、
 恐怖の対象でもあるが、対峙してしまえば案外脅威的ではなく友好・協力が可能な自己でもあると思った。
・キリコさんは、生の世界では後ろ重心+老い、死の世界では前重心+若さ。
 塔で隔たれた二つの世界が真逆の場所であることがわかる。
・わらわらは、眞仁が肉を食べたのと同じ巨大魚からとれた油を摂取して、上に飛ぶ。上に行くと、「生まれる」。
 →心身を維持するための殺生・労働を描く。同時に、その殺生で得たエネルギーで生命のもととなる無数のわらわらが
 渦を巻いて高く飛ぶのは射精(あのシーンでは精通)を暗喩しているように思った。(半透明の粘液みたいのもあった)
< 「便所」の中に後月明りが差して月に目を遣り、わらわらが現れる。いつも気を張っている眞仁が珍しく(初めて?)穏やかな表情だった。
 ペリカンの大群(死)がほとんどのわらわらを食べてしまうが、ヒミが大きな花火を1発あげて、
 わらわらが命として生まれるのを助ける。→男女の出逢い、互いの対称性、互助性。命を生み出すのに不可欠。>
・ペリカンの大群は、抗えない死(の本能)や不可逆な時の流れの象徴か。
・一羽の死にかけているペリカンと対峙し、会話する。死に絶えた体を埋めてあげる。死を受容する過程かも。
 アオサギは嫌がるけど、結局手伝ってくれる。
・女性は1、男性は無数。ヒミ(母)は一人、王(父)が従えるのは無数のインコ。
・母親の正体をみる。産屋まで見に行く(ここまで行くのは本来タブーらしい。母胎に還ることと同じか。)。
・「時の回廊」は、いつも光から闇への一方通行だった。時の不可逆性、朝→夜、生→死。
・キリコ「眞の仁か。道理で、死のにおいがプンプンするわけだ。」真の人間は、生まれた後はまっしぐらに死に向かうもの(死の本能)。「眞」の字はそもそも死体の意味もある。
・インコ軍?4色いた。緑、ピンク、青、黄色?原始的欲求にのみ突き動かされる存在かな?食欲とか如実だったし…
 弱肉強食。狩る側だけでなく、狩られ食らわれる側でもある命。鍛えてくるのは男性性。助けてくれるのは女性性。両方必要。
 →インコの王(大将)であり、それらを統率する理性であり権力が、父性の最たるものだった?
・作中、一貫して鳥(自己像であった豚からの脱却)。水鳥、渡り鳥、そうじゃない鳥。
・アオサギ:くちばしの穴を埋めないと飛べない。自分で穿っておいて、自分で埋める作業が必要。穴を棒で塞ぐ。凸と凹。
・7は、今現実で認知できる世界のすべてを表しているのかなと思った(7曜日、7不思議、7転び8起き、マジカルナンバー7、七福神、8以上は”より多い”)。
・13は、12カ月より多い、素数でもあり、まだ見ぬ不安定な世界の在り方かもしれない。
・母→母にそっくりの新母への移行は、現実的な家族関係の描写とは別に、
 内的に「受け入れがたい母の新側面」をどう受け入れていくかという過程を描くためのモチーフではないかと思った。
・終盤、アオサギの「おまえ、覚えてるのかよ?皆忘れるんだぜ」。石(墓石・7つの積み木:問と責務を投げかけた男性の持ち物:抽象的)と
 キリコの人形(7人のおばあちゃん、労働する・食べる:生きるを教えた女性:具体的)を持ってきたから覚えていた。
 →あの世界のことを、あの世界のなかで問い質すことを切り上げてしまわずに、未解決のまま持ち出してきたってことか。
  分かるともわからないともしないで、考え続けようとしてるってことか。
・「本を読みすぎておかしくなった」大叔父は、知りすぎてしまった老賢者であり、人智の最たるもの、知の結晶。
 人間の中では神に最も近い描かれ方だったかもしれない。ほとんど神。
 でも永遠ではないし、完全ではないし、操作・管理できる範囲には限界があるようす。どんなに気づき、築いても、
 バトンを渡すときには次に伝えきれない部分がある。一方で、きれいな2倍(7×2=14)には届かなくても(13)、
 叡智は積み上げられていく。もしかしたら、14こ目は眞仁が勝手に拾った積木かも。
・病院で父に「本当のことを言え!」と質されたときには答えられなかった眞仁が、過酷な旅の末に
 大叔父の前で「僕は正しくない」的な事を自分の口で言えるようになる。これが眞仁の成長のすべてと言えそう。
・父にとって、子供である眞仁はまだ、小さなインコ。
 一方で眞仁にとってインコは、沢山の大きな男たちに今後も揉まれていくから、恐い対象かも。



ところどころ重複あるかもしれません。。
続きはまた書きたいです!


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