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【エッセイ80】「できない」なんて言いたくない

「できない」とは言いたくない。

例えば、文章に関して○○というテーマ・内容で、来週までに2000字書いてって言われたとして(プロでもないので普段言われることはないけれど。大学のレポートなら経験はある)、それに対する答えに「できない」とは言いたくない。

これってその物事に対して、どれだけ本気であるかとか自負があるかとか、そういう事に関わってくると思う。

例えば私はアコースティックギターを趣味で練習しているけれど、「この曲、2週間後までに弾けるように練習してきて」とか言われたら、「いや、無理無理!できないっ」って即座に答えると思う。
だってあくまでもギターは趣味だから。自分が楽しいから弾いているだけで、誰かに聴かせることが目的ではない。それだけ上達したら、もちろん嬉しいけれど。

けれど、芝居で演出家に「もうちょっと悲しいニュアンスを表情と態度で表して」とか「そのセリフ、もっと弾けるように。動きも別のパターンで見せて」とか指示を出されたら。
私はやっぱり「できない」とは言いたくない。
それはおそらく、私はあの頃、芝居を本気で演っていたから。

「できない」と言えるか言えないかは、自分がその物事に対して「本気」か、そうではないかを計る指標になる気がする。
でもこれは芸術に関する内容には当てはまるけれど、今現在の仕事(司書)なんかには当てはまらない。
自分ができる仕事量をきちんと把握して、できない分は人に回さないと、仕事が回らなくなるし、そもそも余計に迷惑になるだろうから。

文章を書くこと、小説を書くこと。
今、私が力を入れてやっていることだ。
もし冒頭に書いたような制限(期日や分量や内容)がある中で書くことがあるとしたら、絶対に「できない」とは言いたくない。

「できない」と言いたくない気持ちは何なのだろう、と突き詰めて考えてみると、やっぱり自分の中で「上達したい!自分の考えた世界を誰かに伝えたい!」という気持ちが強かった。
そして、それをすることで生きていきたい。つまり、平たく言えば「収入を得たい」と思う気持ちもある。

芝居をやっていた頃、公演を行う際に、私たちはチケットを売ってお客さんに観に来てもらっていた。
個人の収入になることはないけれど、劇団としての活動費、公演をするための経費に充てていた。

お金を払って、自分たちの芝居を観にきてくれる人がいる。それは私にとってやはり大きなことで、それを「本気」でやらないなんて失礼だ、と思っていた。

今もその気持ちは変わらない。

対価をもらうのであれば、プロでなくたって、それ相応のものを見せる必要がある。
見てくれた人に何か少しでもプラスになるものを届ける必要がある。
その責任が自分たちにはあった。
そんな誇りにも似た責任感を持って、私は芝居をやっていた。

だから、小説を書くことを自分の生活の糧にしようと思ったら、「できない」なんて答える選択肢は私にはなかった。

それに多分、プロは「できない」なんて言わずに「やる」んだろうから。






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