【ショートショート】不死の薬は誰がために

(帝視点)
かぐや姫が月に帰って、一年が経った。彼女が最後に残した不死の薬が入った瓶をつまみ上げて、ため息をつく。外に目を向けると、月はあの夜よりも傾いて、放つ光も不安げに見える。辛いだけだと知っていながら、気が付くと見上げてしまう。届かないことは分かっているのに。
 たまにすべてが夢だったのではないかと思うときがある。それぐらいには、現実離れした体験だった。しかし、この激情がいつだってそれを否定する。すべて嘘だったというのなら、未だにこんなに焦がれているはずがないだろう。
 この薬が入った瓶を見る度、姿も想いも鮮明に蘇る。壺に添えられた手紙は未だに読めないままだ。しかし、いつまでも落ち込んでばかりはいられない。いい加減前に進むべきだろう。
 覚悟を決めて手紙を開くと、見覚えのある字があった。強烈な懐かしさがぐらりと脳を揺らす。三年間歌を交わすうちにすっかり見慣れたかぐや姫の字だ。

(かぐや姫の手紙と歌)
このように大勢の兵士を派遣して下さって、私を引き留めようとしておられますが、この国に居ることを許さない月の国の迎えがやって来て、私を連れて行こうとしますので、残念で悲しく思っています。宮仕えをしないままになってしまったのも、このような煩わしい身の上だったからなのです。勅命に逆らって物事の道理を心得ない者だと思われたでしょうけど。強情に命令を受け入れなかったことで、無礼な者だと思われてその印象を残してしまったことが、今でも心残りとなっております。

いまはとて 天の羽衣 着る折ぞ
君をあはれと 思ひ出でける

(帝視点)
 確かめるように手紙の内容を呟いて、目を閉じた。覚悟していた強烈な悲しさや虚しさは襲ってこない。代わりに強烈な違和感が頭に残っている。
 これは、かぐや姫の本心なのだろうか。生じた疑念の霧は質量を増して、たちまち胸中を支配した。勅命を下したときのことを思い返す。
 この手紙では、かぐや姫は勅命に逆らったことを気に病んでいるかのような書き方をしているが、それが本心だとはとても思えない。かぐや姫は、強引に勅命を出して宮仕えに来るように言ったとき、「問題があるなら殺してくれ」なんて言い放ったんだ。
 この手紙から受けるかぐや姫の印象は、実際に話したり歌を交わしたりしたときのものとは大きく違う。そもそも求婚者に無理難題を吹っかけたり、私の命令を何度も断ったりするような女の本心がこんなに従順なはずがないだろう。
 頭の中で膨らんだ疑念が確信に変わっていく。
「だとすれば、君の本心はどこにあるんだ?」
 見上げた月に雲がかかって、光が薄く漏れている。
「よく見えないな」
 呟いた声が誰もいない部屋に落ちた。声が返ってくるわけもなく、ただ秋風の吹きすさぶ音だけが響いていた。

(かぐや姫視点)
 時が経てば、これも思い出にできるはずだ。そう言い聞かせようとするけれど、涙は留まる様子を見せない。無理もない。私にとってはつい先ほどのことなのだ。
 地上での禊を終えた私はすぐに月から自分の持ち場に戻るよう命じられた。私が戻ると、みんなは口々に心配の言葉をかけてくれた。気持ちはもちろんうれしいけれど、上手に笑うことができなかった。
 自室に戻った私は、誰も入ってこないようにと言伝して扉を閉めさせた。持て余すほど広い部屋に、望めば出てくる御馳走に、ましてやこの世の至宝さえ、ここには揃っているのだけれど、そのすべてがむなしく映る。
 そんなことを思ってしまうのは、私が羽衣を纏っていないからなのか、それとも地上に大事な人ができてしまったからなのか。おそらくはその両方だろう。
 あの時羽衣を着せられたはずの私が、人を想う心を失っていないのは、天界の重役である母が羽衣に細工をしてくれたからだ。私の気持ちを察してくれた母は、私にこう言ったのだ。
「いい?叶わない人を想い続けるのはとてもつらいことよ。だけどあなたがそれを望むなら、その気持ちは大切に持っていなさい。そして、どうしても耐えられなくなったら私に言いなさい。本物の羽衣はその時渡しましょう」
 帝に残した不死の薬と手紙のことを思い出して、後悔と自責の念に駆られる。どうして私は同じ過ちを繰り返してしまうのだろう。思い出すのは昔の記憶。地上の時間にして、ほんの千年ほど昔の話だ。

(帝視点)
「確かこの中にあったはずだ」
 埃まみれの倉庫の中、私は昔読んだ物語を探していた。ギシギシと不穏な音を鳴らす木製の梯子に足をかけて、ぎっしり積まれた本を取り出していく。
 すべては馬鹿げた仮説にすぎない。しかし、私の胸中にはほとんど確信めいた予感があった。そして、同じくらいの不安も。
 本の多さに焦れて、積まれた本を強引に引き抜いた時、梯子に登った当初から絶えず懸念していた事態が起きた。私の足を支えていた梯子の一本がバキッと音を立てて折れた。
「うわっ」
 私は本を引き出した反動でそのままひっくり返り、仰向けに床に叩きつけられた。その上にばらばらと本が降ってくる。
「いてて……」
 それほど高い梯子じゃなかったからなのか、幸い痛みはほとんどない。落ちた痛みより、本のぶつかった痛みの方が大きいくらいだ。
顔に振ってきた本をどけようとして、私はそのうちの一冊が目当ての本であったことに気付いた。そして、挿絵の女性に見覚えがあることも。

(帝視点)
 私は部屋に戻ると、床に広げてある紙の中から一枚を拾い上げた。書かれているのはかぐや姫の字。かぐや姫が月に戻る一ヵ月ほど前に、私に届いた歌だ。

恋すてふ この現世の 都さえ
涙の目には いとど恨めし

 らしくない歌だとは思ったんだ。かぐや姫と交わした歌の内容はすべて覚えているが、これほど直情的でひねりのないものは他にない。当時は月に帰らなければならない悲しみで歌が荒れているのだと思っていたが、そうじゃない。この歌はかぐや姫の居場所を示唆したものだったのだ。
 倉庫から戻ってくる間に、外はかなり暗くなっていた。手にしていた本を月光に照らして、食い入るように中身を見つめる。抱いていた予感はほとんど確信に変わっていた。
 ページを捲る手に落ちる涙が熱い。気づけなかった自分が情けなかった。かぐや姫が地上に来た理由が、そして私からの求婚を頑なに拒み続けた理由が、私の想像する通りだとしたら。
私はかぐや姫に再び罪を犯させてしまったことになる。

(in竜宮城)
 従者により重厚な扉が開かれて、城の内側に月光が差し込んだ。月光が青く照らしたその先に、見覚えのある後ろ姿があった。
「どうしてここが分かったんですか?」
 振り向かずにかぐや姫が言う。声は震えていた。
「手紙と、少し前にくれた歌」
 歌の内容は名言しなかった。それで十分伝わると思ったからだ。
 かぐや姫は振り返らない。
「小さい頃、母親から何度も読み聞かせてもらった話があった。主人公の名は浦島太郎。竜宮城に招待された男の話だ」
 かぐや姫は振り返らない。
「そして、私の家の倉庫にはそれと酷似した内容の本があった。主人公の名前は浦島子。連れていかれる先は蓬莱。読んで「とこよのくに」。現世(うつしよ)の裏側にある国だ」
 かぐや姫は振り返らない。
「しかし、蓬莱なんて伝説でしか耳にしたことはなく、辿り着いた者はいないとされている。その理由が、蓬莱と呼ばれるそれが海の底にあるからだとしたら?」
 かぐや姫は振り返らない。
「君が地上に来た理由は、天界で罪を犯したからだと聞いた。その意味がようやく分かった気がするんだ」
 かぐや姫は振り返らない。
「君が犯した罪は、浦島太郎に恋をしたこと。そうだろう?」
 振り向いたかぐや姫の目から、涙が一粒零れ落ちた。
「聞いてくれますか?」
 そうしてかぐや姫は語りだした。はるか昔の恋物語を。

(かぐや姫の独白)
 笑顔の素敵な人だった。顔中をくしゃくしゃにして笑う様子が好きだった。このままずっと一緒にいれたらと思ってしまった。だからあの人が地上に帰るといった時、私は悲しくて仕方がなかったのだ。
 しかし、意志の強いあの人を止めることはできず、ついにあの人は地上の世界に帰ることになった。ここと地上では時間の速度が違う。このまま地上に帰ればあの人は地上で過ごすはずだった時間をいっぺんに受けることになる。そうなったら、おそらく生きてはいられないだろう。
 そう考えた私は竜宮の宝の力を借りることにした。
 玉手箱。人の時間を閉じ込める道具だ。これを持っていれば、あの人はそのまま生きていられる。年を取ることなく、永遠に。そうすれば、いつか私に会いに来てくれるかもしれないと思った。本来なら地上の人に渡すなどありえない、竜宮が抱える至高の宝。
 しかし、あの人は玉手箱を開けてしまった。
 玉手箱が開かれたことはすぐに天界に知られて、父の命により私は捕らえられた。そうして、私は禊として、地上で生活することを命じられた。
 どれだけ求婚されても誰とも一緒になる気がしなかったのは、もうこの世にいない人に焦がれていたから。帝の求愛を拒み続けたのは、もう二度と人を好きにならないと決めていたから。
「……だから私はずっと苦しかった。あなたにどんどん惹かれていく自分が怖かった。私が地上の人に恋してしまうと、その人が不幸になってしまうから」
 いくら拭っても涙は止まらなかった。出会ってしまったことが申し訳なかった。私さえいなければこの人は、地上で楽しく暮らせていたに違いないのに。
「好きになって、ごめんなさい」
 竜宮城に私の嗚咽が響いていた。扉に背を向けたままの帝の表情はよくわからない。
「ならばなぜ私に不死の薬を渡した」
 帝の声は震えていた。私に怒っているのだろう。
「本当は自分に会いに来るのを期待していたんじゃないのか?」
 返す言葉もなかった。長生きしてほしいなんて、建前に過ぎなかった。
「謝らないでくれ。私は君と歌を交わしていた時間が人生で一番楽しかったのだから」
「嬉しいけど、でもどうしようもないんです。ここにいても地上にいても、いつかは父に気付かれてしまいます」
「それについては考えがあるんだ」
 真剣な声で帝が言う。私は固唾を飲んで次の言葉を待った。心臓の音が煩い。
「君の父上に挨拶させてくれ!」
「え?」
 意表をつかれて、思わず間抜けな声が漏れる。
「君が連れ帰られた時、私は部下に命じて天界の人に様々な攻撃をしかけただろう?そんな無礼な男に結婚の許しが出ようはずもない。だから今回は正々堂々。真正面から挑んで認めてもらう」
 天界のトップのところに単身乗り込んで直接交渉だなんて、とんでもないことを真面目な顔で言い放つ帝がなんだかおかしくなって、私は思わず吹き出してしまった。それでも、天界の目を盗んで密会し続けるより、ここで別れを選ぶより、はるかに魅力的な提案だった。
「……覚悟はしといてくださいね。父は厳しい人ですから」
「もちろん、認めてもらえるまで何回でも挑む所存だ」
「期待してます」
 私は帝に駆けよってそのまま抱きついた。結婚の話もきっと一筋縄ではいかないだろうし、仮にうまくいったとしても天界の人と地上の人の結婚には様々な困難があるのだろう。でも、この人となら何でも乗り越えられそうな気がすると、そう思えた。

(十年後)
「そうして、父親に結婚の許しをもらった帝とかぐや姫はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
私は五歳になった息子の頭をなでて、寝るように促す。いつもは途中で寝てしまうのだが、今日はまだ起きている。
「母上」
「なあに?」
「この間、母上がいなかったとき、他の人から同じ話を聞いたんだ。でも、その話は内容が違っていて、最後、二人は離れ離れになって終わるんだ。だから、母上のしている話を教えてあげたんだけど、そんなこと本には書かれていないって」
「そうね、本には書かれていないかも。でも確かにあったことなのよ」
 ふーん、と納得してはいなさそうに言う。
「でも僕、母上の話の方がやっぱり好きだな。離れ離れになっちゃうなんて、悲しいもん」
 そう語る息子をそっと抱き寄せる。
「うん。私もこっちの方が好き」
 そのまま頭をなでていると、息子はいつの間にか寝てしまっていた。
窓から綺麗な望月が覗いていた。

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