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【エッセイ】「推し」について

 「推し活」。それは、ここ数年で若者を中心に浸透した言葉で、私にも聞き馴染みがある。
「推し活」の「推し」というのは、「自分自身が強い愛着や情熱を持ち、応援している特定の人」を意味し、「推し活」はその「推し」を応援する活動をいう。
「推し」の対象はアイドルや俳優、お笑い芸人、スポーツ選手など多岐に渡り、「推し活」の仕方についても人それぞれだが、例えば「ライブや握手会に参加する」「インターネット上で推しの魅力を伝える」といったことが上げられる。

 このような「推し活」が人生を豊かにするという情報や、「推し」の存在があるからこそ、仕事や学業などで生じる辛さを乗り越えることが出来るといった情報が、若者を中心にテレビやインターネットからは、沢山入ってくる。
 確かに、仕事が原因で、適応障害になったある友人も、休職中、とある男性アイドルを好きになり「推し活」を始めたことがきっかけで、徐々に立ち直っていった。

「誰かを応援することで、得られるエネルギーってあるんだよね。『推し』が夢に向かって頑張っている過程を応援するのは、自分も一緒に参加している気分になるというか…」
 と、目を輝かせながら言っていた友人を見て、「なんかいいなあ」と思った。

 昔から「推し」のいない私は、その感覚を完全に理解は出来ていないのかもしれないが、「誰かを応援することで、却って、自分が励まされる」といった感覚なら、何となく経験がある。素敵なことだな、と思う。


 私も、いつか「推し活」がしてみたい。
 昔から好きな「バンド」や「小説家」はいるが、そうはいっても、それはどちらかというと、その人・グループ自体というよりも、その人・グループの創った「芸術」が好きなのであって、相手自身に強い愛着を持ち、熱狂的に応援するという感覚とは、少し違うようにも思う。

 一方、学生の頃も含めて、若者の定番の話題といえば「恋愛」や「対人関係」と同じくらい、「特定のアイドルや俳優」のことが多い。
 だから、昔は、同級生の女子達が甲高い声を上げながら、活き活きと「推し」を語っている度に、どこか、肩身の狭い思いをした。そして、同級生の人達が「推し」に対する「好き」という感情を惜しみなく語り合っている姿が、かなり羨ましかった。
 なぜかというと、アイドルや俳優ではない、通常の生活の中で出会う人を対象に「好き」という感情を、簡単に語ることは出来ないから。

 例えば、私が隣のクラスのA君を好きになったとする。だが、
「A君好き、好き、好き!」
「A君の○○が好き、○○も好き。誰かにこの好きという気持ちを分かってほしい!」
 というように、今にも感情が溢れ出しそうなことがあっても、教室の中でそれを堂々と語るわけにはいかない。
学生生活に支障をきたすし、何より私が好きであるA君に迷惑がかかるし、周囲や大好きなA君自身に「気持ち悪い」と思われる可能性が高い。

 だけど、それが「推し」なら問題ない。アイドルや俳優などの芸能人、スポーツ選手は「応援されること」「ファンがいること」が前提の職業だからだ。
自分の「誰かが好き」という感情を、惜しみなく伝えても受け止めてもらえる存在が「推し」であり、「推し」を通してでしか、語れない会話があると思う。それって、かなり救われることだと思う。

ああ、「推し」という存在が私にも、欲しいな。
「週末は『推し』のライブに行って、その後『推し仲間』と飲み会」とか、何だかとっても楽しそうで羨ましいな。
「よし、推しを見つけよう!」
 と、ある時、意気込んでインターネットやテレビを見漁っていたら、あの友人から
「推しは『見つけるもの』じゃなくて、『落ちるもの』なんだよ」
 と言われた。ちょっぴり、悲しかった。

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