経験から語ってみる9(言葉の難しさ2
どうしても切っても切り離せないのが、言葉。
コミュニケーションって言葉のキャッチボールって言われるくらいですしね。
ただ、どうしてもこのキャッチボールが成立しない...
と言う部分には、伝わらない、理解されない以外の要素がたくさん含まれてる様に感じます。
以前、単語レベルに切り離すと解釈一致する、でも会話として文章にしたら逆転すると書きましたが、そういう所も会話をしながら気づいて、表面的には会話をしつつ、頭の中では部分的に切り離されて、会話の状態を分析してたりします。
そういう経験から、また少し言葉の難しさ+αで語ってみようかな、と思います。
前置き
まぁ、お決まりのお約束というか、個人としての意見や主張であり、それ以外の何物でもありません。
ただ、痛い所を突くという事は、容易に予想出来るタイプでもあるので、予めご了承ください。
予定としては、主観と客観に触れる部分が出てきますが、個人としては感受性の感じ取りとして、自身すらも環境の一部と言えるほどで、会話について意見を発していても客観視と言う部分から語るという事も入ります。
ただ、そこに対し”自身の意見や考え方の違い”という点だけで、これは主観だ!と言うのは自由ですが、その自由を行使する上では言い返される覚悟と言うのを持った方が良いかも知れません。
まぁ、面倒なので探してまで突かないですけどね。
と言う事で、前置きでした。
言葉の難しさ
本当にこの部分は嫌でも考えてしまうというか。
”こうなってしまうのは何故なのか?”
という所がスタートなのですが、単純に使われた言葉に限らず、会話やそれを含んだ状況の流れ、それを踏まえてのそれぞれの主張、そしてその主張以外での普段の様子などなど。
SNSで気軽に発信できるような時代になりましたが、その裏には何でこうなるのかなぁ?と頭を捻る要素が多いですし、故に個人としては実際に頭を捻ったりしてます。
個人の自由、個人の差。
それは良いんですよ。ただ、少なからず意見が出てそれに反する意見が出た場合は個人の自由を超えて、会話や対話、議論という形式ばった物になるというか、そういうつもりはなくとも首を突っ込んだ以上そういう風に見られる、扱われるという事もある、と言う話です。
なので、意見の相違というだけで、言いたいこと言ってるだけだと自爆する事にもなるんですよね。
そして、SNSだろうがなんだろうが、個人の意見であっても不特定多数が目にする場に投げ込めば、巻き込むなではなく、知ろうが知るまいが勝手に自分から首突っ込んで壇上に上がる行為でもあるので、
覚悟しなきゃならないんですよ。
相手から更に反論されたり、全然知らない所で突かれたりという、自由を行使したからこその代償が発生するんですね。ギブアンドテイクです。
自由の名のもとに好きな事をやれば、他者の自由からそれが自身に跳ね返る事もある、そういう事。
そこではやはり、言葉の扱い方って重要ですし、言葉は思考や心理、理想、性格というパーソナルな部分が出てしまうので、慎重に扱う事も必要なんですね。
それこそ、国語のテストの様に、こう思って答えたのに!といくら主張しても、文章の読み解き問題では誤答とされ点数を削られる事になるという様なケースそのまんまにもなるんですよ。
それなのに、ねぇ。
ただでさえ幼稚園時点で、大人が言った事に対し隠された本音とか図星を余裕で突いてたタイプとしては、頭隠して尻隠さずとか、馬脚を露すとか、諺や慣用句ってすごいなぁ、っていう感心と共に呆れも感じてしまうのですよ。
SNSの落とし穴
今回はちょっと、SNSにも触れていこうかな、と思います。
こう言うのも現代ならではですが、相当に動きがあるんですよね。ネチケットとか、ネットマナー、リテラシーと、好き勝手発言し過ぎる人についてはその時々で問題になってました。
そして今や、スマホの普及によりSNSにも触れやすくなったのですが...。
そのせいで、人の世に悪意が満ちているよ...という印象です。
表現の自由、言論の自由というのは、どちらかというと個人が何かを言う程度なら適用されず、何かしらの外部圧力で展示やイベントが出来なくなる事に対しての自由度として扱われる様な物だと思います。
それを勘違いしてるのか、SNSで好き勝手に言って良いという風潮になってしまったのは流石に色々ひきつってしまうんですよね。
自由に対する解釈は人それぞれですが、個人ベースまで拡大し過ぎたせいで形骸化してしまい、中身が無い言葉にもなりつつある、個人的にはもうなっとるわい!って感じます。
そして、SNSってどうしても文字数の問題があります。なので、それなりに正当性や説明、事情を書くための文字が制限されてしまう。
こういう部分から、意見を上げるには別個にこういう場=noteなどを自分で準備して記事を書いてそれを貼るなどの工夫は必要かな、と思います。
そんなの面倒くせー!は良いんですが、それだと返り討ちに合うのは当たり前なんですよ。しかも、自分の正義や主張が転じて悪だと突き返される形でね。
そもそも、SNSってソーシャルネットワークサービスの略なんですよ。
これはあくまで人と繋がったり、それを促したりする為のツールなので、似たり寄ったりの人、趣味が合う人を見つけたりして、意見を交換しあうようなもので。
主義主張だったり、それに対して反論する為のサービスではない、と言う事になります。
ほんとね。こういう部分でもSNSって気軽に言うけど、その言葉の意味、それが指し示す物や範囲をちゃんと理解した上で、道具として活用出来てるのか?という事が言葉と言う部分から如実に表れてしまってると思います。
そういう意味ではね。
SNSって余計な事を言わないってのが凄く大事なんだけど、ねぇ。
主観、客観、言葉の解釈
主観:言ってしまえば一個人の意見
客観:主観や主体(自分含む)を離れて、特定の立場や思想を離れる意見
まぁ、だいたいこんな感じになるかな、と思います。
この辺の難しさって、事情や状況という全体像を含めたとしても、それを一個人の意見に交えた場合はどうなのか?の判断が難しくなるという所があるかな、と個人的には感じてます。
反対意見を出すにあたり、反対したいが為に事情や状況という外を含めても自身がしたい反対になってしまえば、主観でしかない。
個人としては、結構シビアに見つめてたりします。
というのも、反対と言う事は、対になる相手側があるので、そちらの事情や考え方も読み取って考慮しなければ、自分の立場でしか物が言えず、これが客観でいう、立場を離れるに当たらないから、という理由って所ですかね。
物事が見えてるようで、肝心な所抜け落ちとるで?
という感じで、自分から進んで地雷原を踏んでしまってる状態になるんですよ。
かと言って毎回そういう事してたらキリが無いので、文章化する事でうまいこと表現をする事にもなるんですね。そして必要なのが文字数になる、と。
だって、嫌でも言葉が増えますもん。
これをね。
最近だとね。
簡潔に表現できるのが普通の人、発達障害は話が長すぎ、あちこちに飛び過ぎな人と、書いた図が出回ったりしたせいか。
簡潔に言えば普通=SNSという制限された文字数で言える俺スゲー
と言う様な、とんでもない勘違いをしてる人が増えてるかなぁ、と思います。
これね?
簡潔にし過ぎると伝わらないどころか、誤解や曲解の元にもなるので、ケースバイケースなのは間違いないんですよ。
ほんとこう、都合の良い部分だけを、都合よく解釈してしまってるというか。
寧ろ簡潔にし過ぎたせいで、言葉の選び方、文章としての組み立て方の影響で、実は肝心な所が言えてない...というのは、結構日常で遭遇します。それこそ、色んな人から。
なので、指摘したら謝られたり、怒られたり、キレられたりと、色々してしまいもする。
うん。
言葉って難しいんですよ。
伝える=説得する?
さて、こういう部分でも、思う所というんですかね。
そういう部分を少し。
よく伝わらない、理解されないという事は見聞きしますし、実際に相談によく乗ってた頃もそういう相談って多かったです。
どうして伝わってくれないの!!
あんたは分かってくれるのに!!
いやー、相談を聞いてる側だし、伝わるではなく受け取る、受け止めるはやってるから、そう感じ取れるんだけどなぁ...と内心思いつつ。
相談に乗ってた頃は自然とやってたのですが、カウンセラーの資格を取る際に受容と共感という事が出て来て、自分でなるほどしたもんです。
そういう意味では、言葉を受け取る側が、それを受け止めようとしているか?と言う部分がどうしてもあります。とはいえ、相談に乗るという状態であれば私も出来るだけで、普段の会話では必ずしも出来るわけではありません。
まぁ、相談に乗るという状況でなくとも、何となくそう言う流れになれば自然とそういう感じにもなりますが。
まぁ、そういう自分の事はおいといて。
伝わらない理由には、相手を説得出来てないという事もあるんじゃないかな?って思います。
自分が言いたい事を言う、のは良いのですが、それって主観になりがちで相手や相手の立場がどうしても立ち消えてしまうもので。
なので、会話してる相手が居るのに自分主体の意見を相手に”ぶつけてる”だけの状態になってしまう事で伝わらなくなる。
そういう部分を考えると、伝えるではなく説得するというスタンスを上手く利用すると言うのもあろうかと思います。
まぁ、説得と言っても上手くできない人は、自分の立場を伝えようとしがちにもなってしまいますけどね。
そういう意味では、私もnoteの記事がどちらかというと、自分主体=自分語りにもなってたかな、とも思います。なので、難しい。
また、そういう時には感情って結構邪魔です。とはいえ、相手の感情も取り込むくらいまでくると、相手の立場に感情が含まれる事でのコントロールの難しさがどうしても発生してしまいます。抑えてても、入ってくる量が多いと難易度うなぎのぼりですし。
また、伝わったか否か?というのは、自分だけの判断も出来ないんですよね。相手の言動だけでなく、その後の動きやその他色々という感じで言ったから、伝えたからおしまいでも無いと思います。
そういう意味では、観察だったり、それは何故?を自分で考えていかないといけないって言うんですかね。
1回言って全て終わるなら、感受性高くても苦労しないですわー(´・ω・`)
あとがき
と言う事で、言葉と言う要素から、伝える、説得する、主観と客観に話を広げてみました。
まぁ、主観と客観は別の機会にまた色々書くかもしれません。
それ程に感じるというか。
感じとれる事でイメージが浮かぶのって、相手の会話の内容の外の事が多いんですよ。会話の内容に沿ってる事もあれば、そこから更に拡大されてって事もあるし、だからこそ話を聞いてるだけでも言い当てるみたいな事も発生してしまい。
ほんとこう、色々言われるし自分としては自然と出来てる事なので、困惑もする、と。
そういう意味では、割と主観と客観は上手い事切り替えも出来てるかなぁ?とも思います。そして、それを成してるのが自分の感受性と言う部分。全てでも無いですし、経験や成長する事で詰まれた経験値と言う部分もあります。
HSPのブームについては、先日も書きましたがネガティブさを受け取り過ぎたと言うのはやっぱりあるというか。主観的なネガティブさも多かったので反応しただけでなく、そのネガティブさを幼い頃から乗り越える、我慢する、耐えるをして生き抜いてきた分、余計に反応も強くなったというのもあります。
こういうと、個人の問題のようですが、やはりそこには言葉の選び方や伝え方もある、と言うように個人として考えてます。
それ程に言葉って大事っていうんですかね。
どんな言葉であれ、自分が発する言葉については、自分が命を吹き込むような物で。そうあるからこそ、覚悟や責任感も必要になると思います。
そういう覚悟や、責任感を持たないまま、異を批判しても生むのはネガティブさなんですよね。
そうなると、感受性の高い低い関係なく、人間誰しも嫌な思い、不快な思いをしてしまうと思います。
と、書いてみると、環境感受性なんかは、言葉だけでなく少しばかり中身にも触れる必要もあるんじゃないかなぁ。
と言う事で、今日はこんな感じでございますよ。それでは。
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