知る、学ぶということ。一個人の見解
あくまで、個人の見解、感想です(きらりん
いや、きらりんとか要らんだろ、というツッコミはさておいて。
個人としてオタクになったキッカケでもあれば。
感じ取り過ぎる、気づきすぎるが故の「何故?」を追うという、ね。
それこそ、幼い頃からそうあったので。
新しい本を買ってもらわなくても、手元にあるモノを何度も読み返しては、無意識の内に新しい発見を探してる。
いわゆる、知的好奇心、というものですかね。
それを刺激するのが、知る、学ぶということかなぁ?と思います。
では、言ってみよう
既知よりも未知
何故、知ろうとして動いてしまうのか?
ただただ、漠然と情報に触れてるだけでも、あれ?という感じで違和感というものを得てしまう。
そうなれば、猪突猛進!猪突猛進!
Wikipediaなんかは、単語に対してのリンクがあったりするので、あれもこれもと、気づけば時間も過ぎている。
そういうことは多いです。
周囲から、
「そんな事を知ったところで」
と、笑われるなんて事もあるわけですが、意に介さずと言わんばかり。
そうしてると、ある時に、
「お前、よくそんな事知ってるな?」
いやいや、あんた前に知ったところでって笑ったのに、と内心毒づく事になるわけですが、驚かれるなんてこともある。
ただ、総じて自分も周囲も疑問に感じるのが、
「何故、そんなに知ろうとしてしまうのか?」
という所。
書き出しの部分でも上げた、知的好奇心という言葉。
その言葉を当てはめようにも、そもそもが幼い頃からのクセ、好きでやってること。
言い換えれば、自分だからこそ、そうあるのが自然体。
なので、知的好奇心という言葉すら、自分が突っぱねてしまう。
だって、知的好奇心だなんて、高尚すぎて…と感じてしまうのだから。
でーもー。
気づけば、そうなってしまう。
何故なんだろう?
と、何度と無く自分に問いかけて、最近気付いたことが、
未知と既知。
その扱いとバランス取り。
そんなところです。
良くも悪くも、目にする=そこまで出来上がってる情報でもあれば。
逆に、見えない部分、表に出されない部分があるのも、情報。
それ故に、既知になってしまえば、関心が薄れてしまい。
未知の方を得ようとする、というか。
未知故に知った時に生じるワクワク感みたいなのを求めて。
あー、これなら、不思議と腑に落ちる。
そして、こういう部分を持ってて、自然と扱ってたからこその。
「普通じゃない、おかしい」
お前はどうなってるんだ。
未知を追いかけてしまうがゆえに、既知で止まれる人には、おかしく映ってしまうのだなぁ。
更に言えば。
道理で、幼い頃から図鑑で知ったから、と言わんばかりに。
進化の先ってどうなってるの?
未知故に、疑問や関心を持ってしまい、親に尋ねもすれば困らせてしまう。
うん、ナルホド。
一つ紐解けたなぁ。
という、自分にとっても、自分の未知だった部分を知るキッカケにもなった。
そういう結果を得ることになりもしました。
漠然とした違和感
とにかく、よく気づく。
そう言われる原因というか、要因というか。
その一つに、漠然とした違和感を感じた時の、影響という物もあります。
どうにもこうにも、モヤモヤして気持ち悪い。
何とか流せるものの、流しきれずに無意識下に残ってしまってたのか?
何かしらのキッカケで、未来において違和感が復活する。
なんてこともあります。
うん。
また、目に見えないモノを感じ取って、顔をあげて周囲を見回す。
幼い頃から、自然とやってしまう行動にも、関わってきます。
「なんだかよくわからないけど、確認した方がいい」
「なんだかよくわからないけど、追いかけた方がいい」
この、なんだかよくわからない=漠然とした違和感。
これも、正体としては「未知のもの」と言い換えることも出来てしまう。
ぽんっ!
なるほど、道理で。
漠然とした違和感も気付いてしまえば追いかけてしまう。
更には、相談という状況だと、自然とやってしまってるので。
それこそ、相談したがわが驚くようなことまで、気づけば拾ってて処理してる。
まぁ、わかったところで、実感を持ってる自分にしか適用するのが難しい。
だって、違和感を感じるという、実感が無ければ。
更には、違和感を感じることの、正体を突き止めようとしなければ。
実感を得られない。
即ち。
これまた、普通じゃない、おかしいって言われるのも、
「当たり前だわなぁ、これは」
うん。
納得。
そうあるからこその
ツイッターでも、最近言ってましたが。
知る、学ぶって大事なんですよ。
という言及をしている。
うん。
過去記事においても、散々に言ったわけです。
情報に対しても取捨選択というのを、無意識の内にやってしまう。
その結果、
既知で止まるか、更なる未知を追いかけるか。
という枝分かれが発生してしまう。
敏感。
この言葉を扱うなら、違和感や未知というものに対しても、敏感ですよね?
グサァ!
ただただ、生きづらいというだけでも、周囲に目や意識が及ばないだけでなく。
「生きづらいってどういう事?自分と違う他者は、どんな生きづらさをかかえてるのだろうか?」
敏感なのに、追いかけないという矛盾。
生きづらさって、ある種の痛みだとも思います。
不安だったり、悩みだったり、苦悩だったり。
こういうのも、個人としては「心が痛い」という感じ方もします。
自分自身については、それこそ敏感。
感じ取って気づく=既知になるので対処もできる。
でも、他者はどうなんだろう?
例え小さくても、苦や苦悶が出てれば、気づきますよ?
「対処が出来ないから、苦しんでる。その様子を目が拾ってしまうから」
未知故に対処が出来てないのだろう。
辛そうだから手を差し伸べよう。
自然とそうなってしまうほどに。
気づきもすれば、支えに行く。
そうなんですよ。
感じ取りすぎる、気づきすぎる。
それが目に見えてそうあると、自然と、
「自分よりも他人」
だって、自分は気付いて対処できるから。
既知であるなら扱いきれるから。
そういう余裕=キャパシティを自然と持ちうるからこそ。
他者が持つ生きづらさ、痛みという未知に対しても、気づく感じ取るすれば。
踏み込んで。
対処すらしようとしてしまう。
本当に、それほどに敏感っていうなら。
こうなるものです、よ?
手を差し伸べることも、学び
そうなんです。
自分ではない他者については、それこそ未知だらけ。
興味関心を持って触れなければ。
知ることは叶わない。
そうやって手を差し伸べれば、自分じゃない誰かを少なからずとは言え。
知ることで、学びになる。
それを重ねるわけです。
だからこそ、言うんですよ。
真面目とか、良い人とか、そういうものじゃない、と。
学びというのは、言い換えれば、自分の糧、肥やしにするという事でもあります。
ここまでくると、言葉の綾レベル。
あまりにも、言葉の扱いを自分にとっての自由自在をやり過ぎてる。
でも、そうあるからこそ。
「お前はやっぱり、普通じゃない」
言われてしまうんですよ。
まぁ、学びと言いつつ、自然とやってしまう、勝手に記憶に残ってしまう。
それが、後々に活きもする。
そんな感じなので、厳密に突き詰めると、学びとは言い切れない。
ただただ、嫌でも感じ取って、気付いてしまう。
それによる処理や判断、そこからの行動。
そして、結果。
ただ、一つだけ言うなら。
結果が生まれたからこそ、結果に対しての分析、検討、評価が可能になる。
うん。
敏感に感じ取れるなら。
感じ取れるからこその、処理や判断が生まれもするし。
嫌でも「結果を残しますよ?」
そして。
結果を残せるから、そこからも学べる。
そういうものではなくて?
人生とは…
学びの連続なのである。
どこかで見聞きした程度の言葉ですが、自分の中には根付いて残ってる。
良くも悪くも普通じゃない。
そう言われる理由は「違い」なんですよ。
個人差、個性、多様性というものが包み込む「違い」
それに対して、誰しも違うから、で止まらず。
何故、あの時、あの状況、あの人と・人たちと…。
感じ取ってしまうから、知ろうとするし、そこから得るもの=学びがある。
そういうのを重ねていくのも、人生、なんですよねぇ。
って、くさいこと言っちゃった。
まとめ
今回は、知的好奇心だ、学ぶだというところから、既知と未知。
既知と未知に対する、個人の姿勢。
そういう物に触れてみたわけですが、キッカケはやっぱり
気づく、感じ取る、という所がキッカケなんですよ。
気づくことが出来るから、触れることが出来る。
触れることが出来るから、学ぶことが出来る。
学ぶことが出来るから、自分の物にして扱うことも出来る。
それ程に、気づく、感じる、感じ取れるができるなら。
同じこと出来るっしょ?
です。
正直ベースでいうと、そんな感じ。
何かしら気づくってのは、ホント、学びにつながるキッカケなんですよ。
それ故に、そこを強調してたわけです。
過去の記事なんかでも、ね。
今回はその辺のタネ明かしなんかも兼ねてます。
少しだけ、ですが。
生きづらさなんかも、それこそわかりやすく。
障がいを持ってて苦労がある、それでも頑張ってる人がいる。
当たり前のように気づけるでしょ。
ネット使ってるんだから…
なのに、気づけないレベルでの敏感さって。
寧ろ、鈍感ですよねぇ?
と、最後にチクっと刺しておきましょう。
それでは。
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