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過ぎるほどのお人好しなワケ

嫌でも言われる、と表現してしまうほどに。

目に見えて、耳に聞こえて気付いただけでなく。
一瞬で、現実に対しての対処、必要性という判断を意識すらしないほどに行動に出ることがある。

それが、周囲に影響を与えてしまうほどなので、どうしても、何度説明しても。
受け入れられないわ、

「何でお前はそんなに気を遣うのか?」
「何でそんなものが見えたからと動くのか?」
オカシイ、でも、オカシイにしても、

自分と違う。
自分が触れ合ってきた多くの人の中にも居ない。

自分がそうあらないだけでなく。
会ったことがないから、と。

「だから、お前の見せる違いはあり得ない」

そんなの、あなたの経験則、下手すれば親ほど年が離れて、それこそ年の功を持ち得てないのに、年齢だけであると言わんばかりに偉そうにしてるからこそ。
途端に、危機感を感じてるんでしょ?

事件、自己、災害どころか。

たかが個人の行動なのに、想定外なので対応がダメダメ。
それこそ、周囲が寄ってたかって「想定外」だから、あるはずがない。

こういう否定が幼い頃から続いただけでなく。

感情としての受け取りとは別に。
客観視としての受け取りも出来てたからこそ。

外側、人だろうが物だろうが、環境として。
集団生活を送る環境であれば、ネガティブに繋がりそうなものに予め対処して、ネガティブが発生しない、ムダな心配をする必要がないというポジティブに反転させる。

環境感受性と言う言葉を知って、ただでさえ感受性が高いだ、高すぎだ言われるので、それを受け入れて考えてみると。

そりゃ、お人好しとか言われるのも、よく分かる。
だって言われるのは自分だから。

それこそ、目に見えるだけでも、あまりに違いすぎてて。
多くの人が気づけず、見落とすだけでなく、こちらが理由を説明してみると。
「言われてみて、意識したら、できそうでもある」
そういう返答もあるくらいなので。

普段から目が感じ取ってるだけでなくそれを脳が処理して情報を得る=気づく、だから動く。

客観的にはそう。
そうなんです、客観的にはそうなのですが周囲が主観として
感情からの感想を込めるので、お人好しとしか言われない

だからこそ、真面目や気遣い、優しいという、人の様にすら。
「過ぎる」がついてしまうんだよなぁ。

そんな人が見てる現実という、ね。
触れ方でもしてみましょうか。


指摘されて初めて、が多いです

何でか突然と言わんばかり

まぁ、言い方悪いですが、周囲がね。
会話の仕方下手くそというか、流れを作らないままというか。

突然の様に、
「なぁ、何でお前はそんなに気を遣うんだ?」

「え?あの・・・、何か変なことしてますか?」

周囲から指摘されて、行動した自分が、なんだか変に映ってる?

指摘されないことには、気づけない。
それ程に、自分にはもう目にしただけ「対処をする必要がある」として行動を起こしてる

それ程に、目で見る、という要素だけでも、かなり細かいところに気付いてるようです

そして、周囲からの指摘を挟むと”その様です”という曖昧さの表現が含まれるほどに。。

自分にとっては、見えるのが当たり前で、見えたら動くのも当たり前。

良い悪いではなく、なんとも不思議、なんとも奇妙、なんともおかしな。
それを「自分にとっては普通なので」とケロっとして言うくらいに。

目に見える、と言う部分でも違いすぎてる。

それこそ、細かすぎるが故に、周囲は意識してないし、してないからこそ、見落としてしまう。
そういう部分を確実に捉えていく、という事が”時折発生する程度”です。

なので、見えてると言えば見えてる。
でも、何かあって行動しないことには、普通に周囲に溶け込めてます。

なのでね?

見えるって不思議だなぁ、と思いもする程、とも言えます。

うん。


視力としては明らかに別

日常生活の様々な部分、その細かい所。

そういうのが見えてしまう側からすると、
「視力とは別だから、驚かれるのよね・・・」
という、別のことも垣間見えます。

視力検査での視力、それによる、見える能力と言う判定。
正式に検査として採用されてるもので測定してもそうじゃない見えかたをしてしまってる。

だからこそ、おかしい、と。
周囲も受け入れづらいもの、と。
そうなるのも否めません。

現状でも、完全に乱視。
右目なんて0.01以下という、ね。それに対して左目0.3程
なので眼鏡をかけてますし、明らかに視力は悪いんですよ。

それなのに。
「何でお前、そんな所が見えてる、そして気付いてるんだ?」

私「いや、だから、見えてるし、気付いてるし、判断してるから行動してる

私からすれば、周囲がどうあれ結局は、個人が行動を起こしたがゆえに発生した結果です。
なので、結果論でしかないし、そこには行動を起こしてる以上
そりゃ、見えて気付くだけでなく、「動くという判断もしてるから」

いくら、視力検査がある、その結果があるとはいえ。

行動を起こしたと言うことは、動くという判断をしてて、そして判断にいたる判断材料があるから。
人間としての、当たり前の行動でもあるんですよ。

うん。
まぁ、心理学とまで行かなくとも。

目に見えて、物が倒れそうで、支えた方がいい。
咄嗟という一瞬であっても、事後で思い返してみると、ちゃんと見ていた事には気づけるとは思います。

そして、そこにはまた、別の問題が、あるのですよ。


同じ方を見てても、焦点はどうでしょう?

それこそ、顔の向き、それ故に目が見てる方向。
こういう部分が一致してる、というのは、気づきやすいと思います。

とはいえ、目の焦点
どこを中心に見てるか?と言う部分が、ね。

おそらく、余程でなければ違ってる。
細かく確認する=追求をしていくと、そういう違いって結構出てきます。

なので、ね?
同じとはいえ、パッと見が同じだけで、実際としては何が中核になってるのか?は別問題

ただの見る、だけでも、意外と根っこ、深い部分というのは、それこそ個人で違いが出る、出てる要素なんですよ。

そして、この焦点を語ると、今度は視野

確かに焦点が当たってる部分を拾ってるわけですが、意外と意識してないだけで、その周辺も見えてるのも実情だと思います。
視野=目、眼球を動かさなくても見える周辺、ですね。

そこに対しての、気づき方、と言う所まで、話しをすると

「一体お前の目はどうなってるんだ?」
みたいなことを、言われもします。

「そんな所に、きづけるわけがないだろ。」
ってね。

ここまで来ると、正直、逆転してしまうので、それこそ、言い分を聞いておくれよ・・・の原因にもなるんですよ。


それなら、行動した理由を説明してよ?

行動してる本人が。
とにかくアレコレ聞かれるので実態を説明すると。

説明したものが全て「おかしい、ありえない、そんなはずがない」と言われるわけですが、そうやって否定をしてると、

「それなら、明確な根拠を元に、貴方が説明しておくんなまし」
こうなるのも、また然り。

こういう事になるばかり、なんですよね。
そして、こういう所に来るのは、

周囲が全部否定した上で、何故だ?何故だ?と聞いてきた局地になってる。
そういう状態です。

イメージするなら。
「アイツはおかしい」という侮り、見下しみたいな部分から、声をかけたは良いものの。
説明を否定する毎に「おかしい!おかしい!」と言いはするも少しずつ後退。
そして、後退し続けた結果、自分から崖っぷちに行き着いてしまった。

自らの落ち度なのに。でも、だからこそ。
逆ギレもよくされてしまう。

「他人の事なんか説明できるわけ無いだろ!」

でもねー。あれなんですよ。
否定するにも、根拠や理由がなければ否定は出来ないもの
感情で否定してもいいですが、そんなの許されるのは子供まで
なので、成長してる間に、集団生活をして、それを学ぶ、と。

なにも、学校って勉強するだけでなく人と触れ合う、そのふれあい方も学ぶ場にもなるんですよ。

というか、個人としては幼稚園児の時点で、言われなくてもそうしてました。
ただでさえオカシイだ、普通じゃないだ、なんだかんだと。

「皆と同じを強要されるばかり」
だったので、そりゃ、自分以外を見てなきゃ出来ないんですよ。
更には、この時点でそういう事をさせる理由、根拠って示されたことがなくて。
「言う通りにしなきゃ怒られる」だったので。
そりゃ「聞き分けが良い」と見える子になるのも当たり前。

そこをどうにも、そういう改善を見せてるのも私なのに。
私自身どうこうは無視して。

教えたから、自分の成果。
大人たちが、そう言わんばかりに、ね。

「子供の事を見てないよねぇ、はぁ・・・」
たまにですが、呆れながら過ごしてました。


そして、1歳まで遡ると・・・

「おそらく、見えてる、気付いてる」
と、思うのだけど、そうとはいえ。

そこまで言葉を操れるわけでもなければ、だからこそ、教え方も上手くやらないと伝わらないはずなのに。

自分の方から勝手に=自発的に。
突然のように、全部わかってるから、と言わんばかりの行動をし始めた。

まぁ、あくまで私個人の幼い頃、記憶が残ってない程と言わんばかりに幼い頃の話かつ、身近で見てる母親だけの意見。

そういうものでもありますが。

弟が生まれる前からそんな感じだったので、生まれてからも。
とにかく手が掛からないし、聞き分けが良い。

更には成長して出歩けるようになると、弟を連れ立って遊びに出かける、と。

ただ、一つ違ったのは。
成長して幼稚園に通いだしてからというもの、何かを教えられると。
「教えたのは先生なのに、大人がそうしないのは何故?」
という、事を家で言い始めたのが、違いでしょうか。

そして、個人の話ではありますが、最初の人生の転換点として。
その、幼稚園児、そして年少組という、まだまだ幼い時点なのに。
「自分が気づくことは、親も、先生も、周囲の大人も気づけない事がある」
これを知ってしまったし、ただでさえ。
手のかからない、良い子だったせいもあって。
親も、周囲の大人も眼中に入れてくれなかったので、余計に拗れてしまいもした。

そんな感じです。

よく気づくのは良いけど、なんでアレほど気付いて、しかも対処まで出来てしまうのか?と言う部分は

「やってくれるし、楽だし、放って置いてもいいよね」

大人が楽をしたしわ寄せが子供に来る。
なんてことを言うのは。

それこそ、自分の幼い頃がそうだから言うんですよ。


黒いものが・・・うわああああ!(厨ニ風

とはいえ、最近は出し過ぎなので、なるべく抑えよう・・・。

まぁ、基本的に実生活でも、自分を抑える=ガマンと受け取られがちですが。

どうにもこうにも、ネットですら気づけるほど。
場合によっては、心配して声をかけたら、裏で話しを詳しく聞いて、とかもヤッパリやってしまうほど。

なので、受け取りもするし、受け取ったからこそ、見えなくて良いものが見える事にもなるので。

相当に、しんどいです。
正直、言葉にしてるけど、こんな言葉吹き飛びそうなほど。

あと、うつ病って言っておきますけど、ね?

生活に支障がでる、そういう状態なので。
「うつ病がこうしたら治った」とか、当事者でも適当ぶっこくな!
とは思います。

それこそ、個人で違いがあるだけでなく、うつ病にかかわらず精神疾患なんかは、医師でもどうにもできない環境だったり、人間関係だったり、それこそ個人としては育つ過程での様々な影響が根にもなってます。

なので、思い出したくても勝手に思い出すし、それが、ね?
意識とか記憶ではなく、体が思い出すから。

朝という時間帯がきっかけになり。
過敏性腸症候群、下痢と激しい痛みも起こしかねない。

また、その痛みを小学校上がってから、という幼い頃から。
激痛故に顔面蒼白であっても、家を叩き出される、辛いと泣けば怒鳴られしかられるだったので。

それこそ、無意識の底なのか?体が勝手に反応する=体側の方なのか?
刷り込まれてるんですよ。

へぇ?
それじゃ、私のうつ病を治してくれます?

って言おうものなら、それこそ、根性論。
根が深すぎてタッチできないのを、甘えてると言いかえるのでは?

多様性?

皆違って皆良い?

なにいってんの・・・というのも、こういう、ね。

世の中の情報の中には、症状や疾患としての「個人の状態と、その違い」を込めてないんですよ。

多様性だなんだ以前の話です。

って、結局出てしまいましたが。

正直、精神疾患だったり、引きこもりにしても原因しだいでは、寧ろ話しを聞いてもらえず、苦しんでる人居るんじゃないの?

個人として、相談員さんに話して、自体が動いたのも。
「距離感誤って、心配してるからと、過剰なほどに引きこもってる相手のスペースに踏み込みすぎ」
そういう指摘を元に、改善させようとしたら、話ができるようになった。

そういう話でもあるんですよ。

最近、ちょこちょこ言ってますが。

「心配って、その人の為にすることだから、反応悪いようなら反省も出来ないとダメですよ?」

それが出来ないから、対応を誤ってしまい、対象者を追い詰めるばかり。

ちょっとこう、ね。
心理学、というか。

人間心理って、意識したほうが良いと思いますのよ。


あとがき

ストレス発散も、何も。
捌く以上に、周囲が違いを理由に、イジメもすれば、的外れな事も言うし、こちらの状態を鑑みずに要求をするばかり。

そういうのを、ね。

人間誰しも違うのだから。
言う言われるも、仕方がない。
でも、可能な限り感情的にならず、自分は自分だから。

多様性とか、皆違って皆良いとか。
あたり前田のクラッカーですよ。

真面目とか、人がいいとか、優しいというタイプは結構そういう、ね?
自分と他者の違いを受け入れた上で動いてるから。
配慮や気遣いを可能とするし、だからこそ、真面目や人がいい、優しいと評価が出来るんですよ。

それこそ、人が違ってて意見が違うのは当たり前なので。

ホントこう、そういう評価をするのは良いけど、評価した人は何故出来てるのか?にならないのもおかしいというか。

自分に都合が良いから、もっとこういう人が増えろ!
って、そんなの多様性でもなんでもないです。

あと、ね?

言っておきますけど、何をどう書いた所で、否定や反論は必ずあるものです
そして、その必ずある、の原因、理由が「人の違い、多様性」なんですよ。

また、言葉ってそれ程に深い部分が出てくる要素、です。

隠したり、繕おうとしても、隠しきれないんですよ。

それは何故か?

常に、相当に意識配る必要になるし、疲れもすれば、精神すり減るので。
どうしても文章を書くだけでも。

無意識に楽をしてるのが、人間でもあります

そして、そういうのが出てしまうだけでなく自分ではない誰かが過剰だと判断すれば
それは楽でなくなり、イジメだったり、ハラスメントと言う話にもなり得てしまう

だからこそ。
ネットという環境ではリテラシー=読解記述力

読み解く能力と、その上で記述=文章を書く能力。
そこを問う意識をもたないといけないと思います。

そういう話が出てたんですよ。
過去には。

それをなし崩しにしてたら、侮辱罪厳罰化。

まだ何も知らない、触れることが出来ない乳幼児。
そういう、これから触れていくであろう、幼い子たちが苦しみかねない環境を作り続けて。

なーにが、子供の為、ですか。

ホント大人ってダメで。

自分も大人になって20年は過ぎてるので。

申し訳ない。
頭下げるしかないんですよ、ね。

それでは。

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