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言葉にできない「一歩」について

こんなにのめり込んでしまう本は久しぶりだった。
恐ろしくも、まったく理解できない世界と、理解できるからこそどきりとする世界が混ざり合っている。




どんなきっかけだったかわからない。
たまたまNetflixで見つけた、この映画。

若くして離婚したシングルマザーが、二人の子を連れて新居での生活をスタートした。
孤独な子育てに追い立てられたシングルマザーの変貌と、二人の子どもに訪れる悲しい結末。
本作では、その様子を淡々と、静かに淡々と、かつセンセーショナルに描いている。

軽い気持ちでこの映画を知ってしまったことを後悔するほど、あらすじを読むだけで心を締め付けられた。
だが、同じ子を持つ母親として、この映画の存在を知らずに人生を追えなくてよかったとすら思わせる。
観る前と後では、私は別の人間に生まれ変わってしまったとさえも形容できてしまう。
私の人生で、間違いなく一生忘れられないほどの傷跡を残した映画になった。
(衝撃的な内容なので、安易に視聴することはオススメしません)




この『子宮に沈める』は実際に起きた幼児死亡事件をもとに製作されている。
2010年、大阪でその悲劇は起きてしまい、後に大阪二児餓死事件として社会の明るみに出る。
この事件を取り扱ったルポルタージュ本『ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件』が、このnoteの冒頭で私が触れた本である。

この悲しい事件がなぜ起きてしまったのか、当事者である母親はどのような環境や心境を経ていたのか、防ぐ手立てはなかったのか……
本書では、著者の杉山 春さんが母親のゆかりの地や馴染みのある人物への取材を行い、その半生をたどる記録が記されている。

本書にて印象的だったのは、彼女の生い立ちと、それによって育まれたとされる彼女の心理的病理だ。
トラウマ、といえばいいのだろうか。
彼女自身、これまでの人生の節目節目で周囲の大人に深く養育され、愛を受けた経験がなかった可能性がある、と私は読み取った。
そして彼女自身の孤独な経験を、彼女の幼い娘の境遇に投影し、娘を見つめることで自分の受け入れ難い孤独や不安に向き合うことが苦痛だったのではないか、と語られている。

それが真実なのかは彼女の口から語られていない。
当事者でも自覚できない真実がある可能性だってあるし、人の記録はいつか薄れ、心は移りゆくので、時間が経つにつれ語られる真実も変わっていく可能性だってある。
しかし、この記述を読んで私は腹落ちできたような気がした。
言葉にできない「一歩」を、もしかしたら半歩にも満たないかもしれないけれど、踏み出せたような感じがしたからだと思う。




この本を読む前、私は純粋に疑問でしかなかった。
孤独な子育てという環境は、自分自身をここまで転落させてしまうものなのか?
母親は誰しも、鬼のような所業を犯してしまう危険性があるのか?
私も、目の前の我が子を陥れる可能性があるのだろうか?

事件を犯したこの母親の気持ちがまったく理解できなかった。
理解できないからこそ怖く、ロジックが通用しない起きてしまった現実に言いようのない恐怖を感じた。

でも、知りたいと思った。
100%を理解できるとは思わない、でも今の私の状態から、ほんの少しでもその世界を受容できるようになりたいと。
そしてそれが、何かの「一歩」になるのではないかと思ったのだ。
(うまく言葉に表せない。自分自身の一歩にもなると思ったし、遠いと感じていた世界の誰かの心を解く一歩になるとも思ったのかもしれない)


実は、こうしてわからない世界に対する強い興味を惹かれることが、私の人生の中では数多くあった。
国と国を引き裂く軋轢の歴史や、弱者を虐げる強者の心理、マイノリティの主張など、自分とは置かれた環境の異なる相手方について理解したいという思いが強い。

単なる知的好奇心なのかもしれない。
こうして軽々しく「知りたい」「わかりたい」と述べるのは、軽率で誰かを傷つける態度かもしれない。
だから口に出すのを恐れていた。

でも、折々に自覚させられるこの情熱に近い感情を、いよいよ無視できなくなってきた。
大学時代に掲げていた「先入観を壊す」という座右の銘。
おそらく私は、この目標のもと生き、日ごとに知見や価値観を更新せずにはいられない人間なのだろう。

今回出会ったこの事件の類似のルポについても、引き続き触れていきたいと思う。
そして現代社会に取り残されている、理解の必要な事象にも近づいていきたい。
私の人生は、見て、聞いて、触れて。
「一歩」を踏み重ねる、繰り返しなのだろう。

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