この色、きみの瞳には何色に見える?
息子とよく本を読む。
最近はもっぱら電車の図鑑が多いけど、たまに赤ちゃんの頃から読んでいた英語の本を取り出しては指さしながら楽しんでいる。
アメリカの本は、日本の絵本以上に色に溢れている。
我が家にあるそれは、「Fruit」「Animal」「House」などテーマごとにページが分けられていて、FruitのページならばAppleやBananaなど、息子も好きな果物の写真が並ぶ。
英語の発音にはあまり自信がないけれど、息子が「おおっ!!」と反応を示したときは、それっぽいジャパニーズイングリッシュで英語の名前を教えてあげている。
「ぃんごっぃんご!!!」
最近のマイブームであるりんごを見つけて興奮する息子(一人で一玉食べるのも余裕なくらい)。
でもキラキラした暑い視線の先にあるのは苺。
お目当てのりんごは、この本の中では緑色だった。
「いちごもおいしそうだね!りんごはね、こっちだね!」と指し示す。
「緑色のりんごもあるんだよ〜どんな味がするんだろうね」と続ける。
「あおっあおっ」
緑色のりんごを指差し、そう繰り返す息子。
青、じゃないな。
青りんごとは言うけどこれは緑だ。
そう思って息子に「これは、みーどーりっ」と伝える。
返ってくるのは、「あーおーっ」ばかりだ。
まぁね、まだ2歳だし。
そう思う傍ら、息子の丸い瞳を見つめて、少し考える。
実際この子の瞳は、このりんごをどんな色で捉えているのだろう?と。
夫が色覚異常を持っていると知ったのは、付き合ってから数ヶ月だったころだったように思う。
(私の感覚で)緑色の洋服について話していたときに、「茶色じゃないの?」とどうも会話が噛み合わず、蓋を開けてみると色弱と診断されたことがあったというのだ。
車の運転や日常生活に支障はないレベルのようだったけれど、私が見る世界と夫が見る世界の色彩が大きく異なっている事実を知り驚いたのを覚えている。
そういえば、高校の体育の先生も。
白髪で角刈り、当時の名字を文字って私を「おかちゃん」と呼ぶ、口元と目元の笑いジワが印象的な、あの先生。
彼がとある授業で、自身が色盲であるという話をしていたことを思い出した。
どの色かは忘れてしまったけれど、先生にはいくつか見えない色があって、私達が見ているのとは違う世界の見え方をしているらしい。
見た目では分からないけれど、その瞳でどんな世界を生きているのか、学生の未熟な心なりにとても気になった。
ひとつのりんごの絵を巡って、「緑」と言う母と、「あお」と言う息子。
お互いの見えている世界を交換して確認し合うことはできないから、息子がどんな色でりんごを見つめているのか、私にはわからない。
実際、人が判断するうえでの色の定義というものは曖昧なもので、同じ色合いで視覚していても、私が「オレンジ」だと感じる色を「ピンク」や「赤」だと語る人もいるだろう。
あるいは、世間的に言う緑色を、息子が青だと言い間違えている可能性だってある。
今の私にできることは、だれと接していくうえでもあらゆる想像力を働かせながら、丁寧に対峙し続けていくこと。
それは色だけでないさまざまな感覚や嗜好、信仰、意志も含めて、いろんなことに対して言える。
私がそう感じるからきっとそうに違いない、という短絡的な判断は、ときに相手を否定し、取り返しのつかない溝を生んでしまうかもしれないから。
「あおかぁ!お母さんには緑に見えたなぁ。おいしそうだね!」
正解がわからないまま、絞り出した息子への言葉。
きみの瞳に映るその色が何色なのか、いつか言葉を重ねて確かめ合える日が来るといいな。
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