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髄まで刺さったこの棘は、いっそ抜かずに押し込んで。二度とおもてへ出てこぬよう。

「着陸態勢に入ったから、一旦切りますね」

機内wifiからだった。そのメッセージへ「いつものところで待ってるね」と返した文字には送達マークがつかず、私からの返事を待たずに電波を切ったことへの一抹の寂しさが、迫る再会への期待と綯い交ぜになっている。

とある駅前の歓楽街。少しばかり酔った勢いに繰り出す馬鹿話で憂さを晴らしながら、夜風に頭を冷やして出張先のホテルへと戻るところだった。

そして次の事態は、あまりにも突然に、不意に起こった。

歩くその数メートル先で、初老の男性が突然に倒れた。

喧嘩とか、相手のいる状況ではないようだ。なにか、その人の中でのバランスが崩れ、仰向けに倒れて後頭部をコンクリートの地面に打ちつけていた。おびただしい血が頭部を囲うように拡がって、路上で溜まりを作り始めている。そこを中心に一定の距離をおいた円弧状の人垣ができ、至近にいた人が救急要請をするなど対応しているようだった。

ほんの10分前まで、再会を祝う酒を交わしていた。お互い明日に控える大切なプレゼンへ向けた壮行でもあった。ジョッキをあおりながら、プレゼン用に覚えた台詞をたどたどしく言い合ったりして、ふざけていた。それらの全てが、目の前の凄惨な光景で吹き飛んでいく。一瞬、顔を見合わせ、私は反射的に「見ない方がいい」と言った気もする。そしてそれ以上何もできず、いや、何もせずその至近の人に任せることが最良なのだと自分に言い聞かせた。回り道をしてホテルへと急ぐ足の不自然な速さは、罪悪感と怯えの現れだった。

2つの客室棟を抱える巨大なホテル。互いの部屋は別棟だ。その広大なロビーで別れ、ひとり客室へと上がるエレベータ。「助かってくれ・・・」と、倒れた見知らぬ男性に祈るフレーズと、地面に頭が打ちつけられた時の「ガチン」という音が、脳内に何度もこだまする。エレベータの大きな鏡に映るのは自分の今の姿ではなく、先ほど眼前に広がっていた光景だった。客室へ入るとすぐ、見るともなしにテレビを付けてまぎらわすけど、すくむ脚の感覚が抜けない。眼下に光る信号やブレーキランプの赤い光でさえ、血だまりに見えた。ベッドに横にもなれず、部屋中をうろうろと歩き回っていた。

明日は、一年で一番大事なプレゼン。この部屋へ戻ったら、酔いに負けず最後にもう一度、練習をするつもりだったのに。

それから何分経っても、どうしても自分をコントロールできなくて、スマホから電話をかけた。

しかし、出ない。何度かけても。メッセージを送っても、既読もつかなかった。部屋番号は知ってる。内線をかけたが、出ない。嫌な予感が冷静な思考を犯し始めた身体で、部屋へ向かった。ノックするが、反応がない。呼び鈴も押したが、やはり応答がない。再度スマホをコールするが、出ない。既読もやはり、付いていない。

もう私は、ネガティブなアクセルが全開になって、だめだった。ほんの小一時間前に、あんな光景を目にしたのだ。浴室で倒れてるのではとか、ロビーで別れた後に何かあったのではとか、とんでもなく悪い想像ばかりが、全身を蝕んでいく。開かないドアの前で途方に暮れながら、自室へと踵を返すしかなかった。

自分の部屋へ戻って一時間以上経っただろうか、ようやくスマホが鳴った。

「どうしました?」

どうしました?

どうしました……?
それはこっちの台詞だ。しかし、こらえた。

「大丈夫?連絡しても反応がなかったから、何かあったのかと思って。」

「ごめんなさい、あのあとロビーで○○さんとばったり会って、下のバーで飲んでたんです。スマホ見れてなくて、ごめんなさい。」

あの状況の直後でよくも追い酒を飲む気になれる図太さへの呆れとか、○○さんとどんな話をしていたのかとか、色んな思考が瞬間的にもつれたけど、すべてがどうでも良くて、でもなかなか言葉が出てこない。そして、あの恐怖から私だけがまだ抜け出せていない孤立感を突きつけられたようで、急に恥ずかしくもなった。

「いや…さっきあんな場面に遭った直後で連絡つかなくなったから、急に不安になって。大丈夫なら、いい……何度もごめん……」

と絞り出して、後の続かない沈黙が続いた。

「……そっち、行ってもいいですか?」

ノックされたドアを開けたが、目は見れなかった。そして、ドアが閉まりきらないうちに、反射的に抱き締めていた。何を言うでもなく。そして気がつくと、不覚なことに、涙が止まらなかった。この人はただ、久々に会った旧知の仲間と飲んでいただけなのに、私は何をやっているんだ、とも思った。情けない自分に絶望したのか、抱き締めたあたたかさに安心したのか、膝の力が抜けて、崩れ落ちそうだった。

私の不自然な呼吸と、開いた肩口に落ちた濡れで異常に気づいた彼女は驚いたように、何度も何度も、謝っていた。違うんだ。単なる私の早とちりなんだ。何をやっているんだ私は、本当に。

あれからもう、数年が経った。当初は、日にち薬という言葉に期待もしたけれど、いまだにその実感を得られていないということは、おそらくこの、棘のように刺さった記憶はもうこの先ずっと、拭えないのだろう。今のように、ときどき不意に表面へ現れては、光景を再描画させる。ならばいっそ、二度と出てこないように一番奥まで刺し込んで、封じ込めてほしい。珍しく背中へ回してくれたその手に、もっと力を込めて。おねがい。

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