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ほんの、数秒。(#冒頭3行選手権/つづき)

一番近くにあるものが、何よりも一番遠い。
そんなの寂しすぎるじゃない、ねぇ。

こっち向いてよ、ねぇ。


「見る」という行為は、二つの意味を持っていると私は考えている。

相手を自分が認識するという事と。
相手が、自分を認識してくれるという事。

他者がいるからこそ、自分という存在を意識できる。
別の人間との関りが、心を成長させる。

人と関わる中で楽しみを知って。
同時に一人でいる時の寂しさを、知っていくのだと思う。


例えば、犬の散歩。

飼い主さんを見上げている犬と、
その瞳を優しく見遣る飼い主さん。

視線の先で、それを受け止めて絡ませてくれる存在があるという事は、幸せだ。

貴方を見ているよ。
大切に思っているよ。

そんな、温かい気持ちを互いの間に感じる。

逆に、引っ張られていたり。
ずっと下を向いたままの犬の姿を見ると悲しくなる。

嚙み合わない視線の先に、寂しさが滲んでいる気がするから。




例えば、小さな子供。

犬の話をした後じゃ、怒られてしまいそうな気もするけれど。
育児をしたことがない私が言うと、角が立つかもしれないけれど。

私は、親に視線を向けて貰えない子供だった。

長女で、下に弟がいるからってのもあると思う。
「お姉ちゃんだから」って言葉は、物心ついた頃から呪いだと思っている。
私は好きで姉に生まれた訳じゃないし、私自身をずっと見てほしかった。



親を見上げて、関心を引きたい時期は何歳くらいまでなんだろう。

少し調べたら世の中の平均が出てきそうな気がするけれど、個人的には、それは一生涯続くものな気がしている。

ほんの、数秒でいい。
言葉がなくても構わない。

忙しくて手が離せないかもしれないけど、そんなこと見ていれば幼くたって、きっと多少は理解している。

それでも貴方の意識を向けてほしい、だから。

「       」

呼んだら、視線を合わせて、笑って欲しい。
きっと、それだけで心の糸は切れない。

ずっと、貴方を嫌わずに生きていける。





◇◇◇

反応をくださった方、ありがとうございます。
前回、画像を歩道橋にしたのは、ああいう場所で小さな子が寂しそうにしている光景を、自分が見かけるからです。

人間、優しくできる時も、イライラしてしまう時もあるのが当然だから。
意識して、視線を合わせて、ゆっくり話せる時間を作って貰えたら嬉しいなぁ。
そこに優しいハグが一緒にあったら、私はきっと泣いてしまいます。

お粗末様でした。

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